義父の永眠
義父、ヘルムート・エヴァーハルト・ウァーグナーは十月三十日二十二時二十分に息を引き取りました。八十九才でした。
遺体は三日間、義父が生前寝起きした寝室に安置され、弔問客はそこで最後のお別れをします。
弔問に訪れる人の合間に私は一人でその部屋で義父のそばに座って言葉のない対話をしていました。
きわめて透明な時間でした。
生命のない遺体、驚くほどの冷たさ、そこにぬくもりをもたらす生命。生命とはなんと不思議な営みなのでしょう。対話の中に生きていたのは生命だったのです。
冷たく横たわる遺体はわずかの時間の間にみるみる変わってゆき、二日たった今日はすでに思い出の中の義父とは別人です。義父は今遠いいそらの人になってしまいました。
冷たい遺体を温厚だった義父の人となりが包んでいます。それは鐘の響きのようです。小さなかすかな響きで鳴り始めた義父の鐘は時間が経つにつれて周りに広がり、いつしか部屋いっぱいに広がり、部屋の壁を越え更に広がって行き、今ではそらいっぱいに広がっています。
義父は家内の父親であると同時に、私に第二の命をもたらしてくれた人でもありました。
第二の命は比喩ではなく、三十五になろうとする頃の現実です。私の体からは生命が失せようとしていました。体は血を作らなくなっていてこのままで行けば余命は二年か三年といわれたのでした。
義父は内科医でした。クリスマスに家内の実家に帰省した時のことです。私の顔を見るなり「どこかおかしい」とすぐに私のかかりつけの医者に電話し、最近の私の健康状態を確認していました。話が終わると今度は、かつて内科部長を務めていた市の病院と連絡を取り、入院の手続きを取って、帰省したばかりの私を二週間の精密検査を受けるべく入院させたのでした。
検査結果は 再生不良性貧血。さすがの義父もお手上げでした。
義父は私の人生のポイントを切り替えてくれた人でした。私が第二の人生を歩めるようになったのは、義父以外の多くの人のおかげですが、義父がポイントの切り替えをしてくれなかったら、そう考えると義父こそが私の第二の人生の生みの親だということです。
その後も義父は健康面だけでなく、精神的にも、経済的にも多大の援助を惜しみなく私に注いでくれました。
その援助があって、私は日本での講演に力を注ぐことが出来たのです。義父なくして今までの講演活動はなかったのですから、義父は一度も日本を訪れることはありませんでしたが、義父は私の背後にあっていつも日本を応援していてくれたのでした。
義父であり、第二の人生の父ヘルムート・エヴァーハルト・ウァーグナーの冥福を祈ります。
葬儀は日本時間で十一月五日夜九時十五分に義父の生まれ故郷のルードウィッヒスブルクで執り行われます。
先月のエリカ主催コンサート、講演会はありがとうございました。
11月7日に振り返りの会として「シュタイナー・カフェ」をいたします。それの準備を兼ねてブログを拝見しましたら、訃報に接しました。先日、日本のお父様の心安らぐお話を伺ったばかりで、驚きました。
お義父様のご冥福をお祈り申し上げます。(合掌)