義父の思い出 葬儀の日に添えて
義父は優しい一面とても頑なで、加えて真面目な人でした。
更に、間違ったことの嫌いな人で、自分が何か間違ったことをしているのではないかと、いつも気にかけていて、その思いすごしが時には周囲にまでおよび、周囲を気疲れさせていたものです。
ところが自分を律するのに厳しいだけで、他人には優しいのです。
他人を責めることなく、どんな時でも「いいよ、いいよ」ですませます。
勿論、どんなことがあって他人のせいにすることは無く、「わたしが至らなかったから」と皆自分のせいに切り替えてしまいます。
本人は西洋哲学が好きで、西洋的な考え方で人生を処理してきたと思うのですが、意識下は相当東洋的な倫理観の持ち主でした。
逸話が好きで、人生の片隅に隠れている味のある、捨てがたい場面には一喜一憂していました。きっとサザエさんの様な四コマ漫画は彼の愛読書になったのではないかと思います。本棚には、それに類したものが幾つかあり、どれもぼろぼろでよく手にした形跡があります。
ジョークは得意ではなかった様で、時折義父から聞かされたジョークめいたものは、どう笑っていいのか解らず、苦笑いで誤魔化すという場面が随分ありました。
私が義父から多方面にわたって多大な援助を受けた様に、義父もまた義母の父親から、つまり義父の義父からと言うことです、多大の援助を受けた人でした。これは義父と一緒に飲む時、決まって話してくれたことでした。
義父は、「おまえと私は義父の世話になるという共通の星の下に生まれた」と、義父関係と言う人間関係に心から感謝していたのです。これは私たちのとても重要な共通項でした。当然の流れとして「おまえも娘婿によくしなければな」となるのでした。
医者が音楽好きと言うのは洋の東西を問わず、義父も大の音楽好きでした。
義父の弾く楽器はピアノ。ベンツを買う代わりにスタインウェイが欲しいという位ピアノ好きでした。「とりあえずバッハ」と言う感じで、ピアノに向かうと先ずはバッハを弾きます。バッハ以外は聞いたことがないかもしれないと思える程です。ただゴールとベルク変奏曲だけは苦手のようでした。
歌が好きな人でしたから、歌曲の時はバッハ以外にも手を出します。シューマンとブラームスがお気に入りで、私の好きなシューベルトとは違う世界を生きていました。
義父は小さな合唱団のまとめ役であり、音楽監督であり、指揮者でもありました。
この合唱団はプロテスタントの司祭さんが戦後間もなく結成されたもので、しかし結成後間もなく亡くなられたため後任としてその後65年の間、亡くなる半年前まで指揮し続けました。ここ何年かは補聴器に頼ることが多くなり、「音楽を聞く楽しみが半減した」とつぶやいていました。多い時には三十人ほどの人が集まって和気あいあい歌っていました。私たちが結婚した時はこの合唱団が大活躍してくれました。その時の義父のはつらつとした姿が今でも懐かしく思い出されます。今ではかつての団員の半分以上が亡くなり、残りの半分以上が老人施設に入っていますから、今日、十一月五日の葬儀に出席できるのはそのうちの五人ほどです。皆九十歳以上です。
義父は家族みんなが好きでした。「この幸せな家族と別れたくない」と病床で繰り返し言っていたそうです。
誕生日、クリスマスなどで家族が揃うと決まって合奏が聞かれます。義父の一番愛した時でした。
義父は人間関係をとても大切にする人でした。決して器用に人間関係を作ることはしない人でしたが、仕事以外の友人を合唱を指揮することで得ていましたし、生まれた土地で一生を送った人ですから、幼友達もいて最後まで心を分かち合える友と語らう時間がもてた幸せな人でした。
私たちの三人の子どもを含め七人の孫に囲まれた義父のくしゃくしゃな顔からは「天下一のおじいちゃん」がいつも覗いていました。大学に進んで勉強している孫たちの話しに補聴器を頼りに耳を傾け、「なにを勉強しているのか」と礼儀正しく聞き、解らないことは何度も質問をしながら今の時代の流れを孫たちの口から感じとっていたようです。