続グリムの甘いおかゆ、あるいは引き算の始まる人生
自分に向かってする引き算は大人の味がするという話でした。今日もその続きを書きます。
謙虚さはその一つですが、謙虚さらしいのは良く見かけますが、筋金の入った謙虚さにはなかなかお目にかかれないものです。それは自分自身に向かって引き算をするのが難しいからです。足し算人生の中に居ると自分はよく見せたいものなのです。
おべっかい、ごますりの様なものも引き算からの謙虚さではなく、歪曲した足し算です。
足し算はその物としては悪いものではないのです。子どもは足し算の中で生きて始めて成長出来るのです。ではなぜ足し算だけの人生ではいけないのかというと、足し算はある時点で停止してしまうもので、その時点を過ぎて足し算を続けて行くと人生が腐ってしまうからです。
足し算が昂じれば、ゆすりやたかりという結末に至ることもあります。大人げないという以前にみっともない体たらくです。不良、チンピラ、やくざというのはここに位置づけられると思います。
子どもは足し算でいいのですが、人格を備えた人間としてはどこかで引き算に目覚めなければその人の人生を台無しにしてしまいます。
引き算は意識的なものです。いつどの様に引き算が始まるかは人それぞれですが、他の人の人生が自分の人生の様に見える時が引き算の始まりです。それは他人のことを気にするのとは違います。他人を気にし過ぎる自意識は足し算の延長にあります。よく見てもらいたいという足し算です。
人に助けられたことに心底から感謝できた時、そこでも引き算が作動します。
引き算は勇気がいるものですから、勇気から生まれるとも言えます。頭で考えてする引き算は、打算で嘘や偽善に近いものがあります。すぐに尻尾を出しますが勇気からのは潔いものです。
甘えるというのも実は引き算です。俗に言う甘えん坊は違いますが、自分の力の足りないことを自覚して他人の力を借りなければならない時、助けを求めます。これは自立するということを頑なに捉えると見えてこないものですが、しっかり自立した人間程素直に他人に助けを借りられるものです。一人で突っ張って、強がっているのが自立ではなく、自分の足りないところを自覚して、他人に助けを求めるのは、正真正銘の自立なのです。
これも引き算人生に入れていいものです。
足し算人生は人生の半ばで消えて行くのですが、全くなくなるものでないことは、人間には何時までも向上心があることを見ても解ります。この向上心がなければ人生はやはり退屈なものです。生涯学び続けるというのは美徳です。
この矛盾をどう説明したらいいのでしょうか。
足し算は引き算の中に姿を変えて生き続けていたのです。我欲としての足し算でなく謙虚な足し算です。引き算に変容した足し算というのもあるのです。
大人になるとは引き算という足し算ができる様になることなのです。
子どもの足し算人生は大いに奨励すべきです。ハイハイから立ち上がり、歩き出し、言葉を喋るようになり、減らず口を聞くようになる。勉強して知識が増えて行くのも足し算人生です。
人生は足し算から始まります。さらに人生は一生学び続けるものと言う考えがあります。これも足し算人生の一つです。
ところが一見足し算人生を肯定している様に見えるのですが、簡単に「そうです」と言えないものがあります。
人生も半ばになると足し算だけではない人生の送り方があることに気が付くものだと、今回のブログは指摘したいのです。
それを引き算と言う言い方にまとめているのですが、勿論それだけで言い切れるものでは無いことも承知の上でです。
こんにちは。「お父様の遺言」、仲さんの姿の中にしっかりお父様の存在が残されているのを知りました。お父様は亡くなられても生きてられるのですね。私も8年前に母を亡くしましたが、自分の中の母に感謝して生きていこうと思います。
そして、足し算と引き算のバランスを見極めながら、いつかすべてを置いてこの世を去る時には感謝の思いだけを持って嬉しく、楽しく向こうの世界に旅立ちたいですね。