日曜版 3 春への幻想
北ドイツの港町ハンブルクに1984年から90年まで住んでいたことがあります。もう25年以上の昔のことです。
その七年間の間、復活祭の時期に聞ける音楽は教会を初め至る所でバッハの受難曲、マタイ受難曲とヨハネ受難曲でした。
北ドイツはキリスト教の中の宗派でいうとプロテスタント系で、信者の人から聞いた話しですが、教会でのお説教は復活祭とはいえ、キリストの復活には触れられずもっぱら金曜日のキリストの磔のことだそうです。復活という考え方の無いことがなんとなく物足りなかったことを思い出します。死を通らないと復活はないですから、復活を語るにしても死を抜きには語れませんから、それでキリストは死んだのだということをしっかりと確認するのでしょうが、死にっぱなしというのはやはり味気ないものです。
デパートに入るとこの時期はウサギだらけです。ぴょんぴょん跳ねまわる生きたウサギはさすがに居ませんが、チョコレートで出来たウサギを筆頭に、ぬいぐるみのウサギ、ウサギのビスケット、ウサギの絵柄のバスタオル、ウサギのコーヒーカップ等々、ウサギであれば何でも来いという勢いです。
ここでいうウサギは繁殖のシンボルで(日本的にはねずみでしょうが、ヨーロッパではウサギになります)、春は動物たちにさかりが付く生殖の時期で、そのため繁殖力の旺盛なウサギに白羽の矢が立てられたのです。繁殖、生殖ということで、当然、卵も登場します。チョコレートで出来た卵、木製の色とりどりに絵付けされ、木の枝に掛けるための卵、それに伴って、ひよこ、にわとりも参加して賑わっています。
復活祭と繁殖の組み合わせは、キリスト教的な意味と自然界の法則とが流れ込んでいますがそれだけではなく、キリスト教の復活祭と古代ゲルマン民族の宗教遺産とが混ざったものと聞いています。
ヨーロッパは夏休み明けの秋に新学期が始まります。実はこの習慣、随分最近のもので、長い夏休みが学期の間に入るのを避けるための苦肉の策として生まれたものです。昔は現在日本が行っている様に、ヨーロッパも四月始まりでした。昔のことを知っている人たちは、春の持つすがすがしさ、緑の芽吹く勢い、そういう環境が年度の始まりは相応しいと、かつての四月始まりを懐かしがっています。
春は心の中が混沌として晴々したかと思うと、憂鬱な気分になったりと変化に富んでいます。乱れ狂っています。天気も、四月の天気という言い方があり、冬の寒さとこれから来る温かさとが激しくしのぎを削るのか、安定しない毎日です。雹が降るのです。ストラヴィンスキーの、1920年代にパリで物議をかもしだしたバレー音楽「春の祭典」も春のイメージから生まれたものです。春を題材にしない限り生まれにいものです。
初めて聞いた時には、どこに焦点を合わせたらいいのか解らず(初めて聞いた現代音楽でしたから、ただ「面白かった」としか言えなくて自分でも情けなくなったものでした。)めまいがしたほどでしたが、バレエと一緒になった春の祭典は通訳付きで外国語を聞いてるような安心感がありました。生贄になる乙女の話しですが、底辺に流れているものは、春のみが知る生命の不思議、生命の混沌、生命の矛盾ではないのかと、最近は思っています。
今年の春はどんな春になるのでしょう。