水曜版 5 病気、エゴ、イデオロギー
イデオロギーはよく使われる言葉ですが辞書を引くと観念形態とか観念論、空論の様な難しい説明がなされます。簡単にいえばエゴの変形です。また病気と同じと考えていいものです。
エゴは自分を主張する以前に、自分を守る体制を作り、自分を守って自分の領域を作り、自分の居場所を確保します。そしてようやく我を張ることができるのです。成人して社会で生きるためには自分のことを言えなければならないので、その観点から見ればエゴは健全であり必要なものです。しかし、エゴを克服するという考え方はもっと健全です。そこから他の人たちと豊かな交流が生まれ豊かな人格が形成されるからです。エゴで自分が固まってしまえば克服のプロセスはなく、人格は育たず、ただ自己中で、自分以外の何も存在しなくなってしまいます。人格異常です。
エゴとイデオロギーを並べるのは、私たちがエゴを克服して人格形成をするように、イデオロギーによって人生を合理的に固めてしまう私たちの一面性を克服したいからです。
自分というのは、一方で自分でなければならないのに、もう一方では自分であってはならないという厄介なものです。同じ様に私たちの思考はイデオロギーをもって合理的に世界を説明し、しかも世の中の非合理的な説明のつかないものも認めなければならないのです。
以前にお話ししたように、いい加減の話しの時です、病気は悪者で健康は好いものというのではなく、病気がなければ私たちの体はバランスが取れなくなります。病気が全くない体なんて異常なんです。そんな物、架空のもので存在しないのです。自分にしても、エゴの我の部分があってもう一つのエゴでない自分、これを無我と呼んでみますが、この無我とエゴがバランスをとって人格が生まれ、両方の混ざり具合によって個性が生まれます。イデオロギーがあってもう一方に非合理的なものがあってそれで思考はバランスを取り、深みを持つのです。
イデオロギーは悪者ではありません。私たちの思考生活の中でないと困るものです。しかしイデオロギーで凝り固まった人はエゴで凝り固まった人の様に異常です。ただその中にいるととても居心地がいいので気付かないのです。しかし傍から見ると考え方に偏見があります。勿論反対に相手の意見ばかり聞いたり、非合理的なものばかりで生きていると目的の無い思いつきに振り回される思考になってしまいますからこちらも要注意です。
イデオロギーにはパターン化の落とし穴があります。あるイデオロギーに染まった人の小説の辿り着くところはいつもよく似ています。人間存在、人間模様はイデオロギーのための道具に過ぎないからです。あるイデオロギーに染まった人の劇も似ていて、登場する人間はイデオロギーのためにだけあるのです。あるイデオロギーが政治をすると個人としての人間はどうでもよくなり、イデオロギーの実現が最優先されてしまいます。そこに独裁的な要素が加わると事態は最悪です。
私の個人的な経験からして、真面目な人ほどイデオロギーに染まりやすい様です。特にお勉強を一生懸命する優等生たちです。小中学校で学級委員をした様な人は気をつけなければなりません。イデオロギーはすぐに権力を掴もうとします。また「こうであるに違いない」という思い込みが強いので、それを行使するために権力に、学校などでは先生でしょうか、結びつき易いものです。
イデオロギーに染まらないためには、心を育てなければなりません。何とも曖昧な言い方ですが、イデオロギーという、とんがろうとするものの先っぽをへし折れるのは外からですと喧嘩ですが、本人の自覚ということからすると心としか言いようがないのです。心は人との出会いによって育まれます。社会にはいろいろな意見を持った人がいるということです。そうした意見を認めるという姿勢が生まれます。イデオロギーに染まった人たちは相手の意見が聞けない人たちです。自分を押し付けるだけですから、相手を言い負かせばことは足りるのです。
イデオロギーに染まった集団から生まれる最悪の副産物はプロパガンダです。嘘と解っていても自分のことを正当化しなければ気が済まないので、イデオロギーに染まった政治にはプロパガンダが付きものです。しかし、これによって政治的品格は著しく損なわれます。
政治に本当の民主主義が生まれるのは人間がイデオロギーを克服した時、イデオロギーから解放された時だと思っています。みんなが他人の意見をゆったりと聞けるようになるということです。些細なことの様に見えて膨大なエネルギーです。未熟な意見であっても、「おまえの考え方は間違っている」と頭ごなしに言わない人間関係ができれば健全な民主主義です。