木曜版 6 思考のためには距離が必要   

2014年5月9日

昔施設で働いていた時にお世話していたダウン症のお子さんと、偶然そのお子さんの住んでいる町で会いました。十年ぶりでした。夏休みで帰省していたので、ご両親と買い物に出ている時のことです。青年になっていた彼を見かけて、お母さんが一緒にいたので彼だと解ったので彼の後ろに回って肩を叩くと振り向いて私の顔を見るなり「ナカー」と恥ずかしそうでもあり、自信満々でもありました。

お母さんと一緒だったから解ったので彼一人で歩いていたら解らなかっただろうと思います。

同じ様な経験がもう一度あって、昔働いていた施設に十年何ぶりに訪れた時のことです。当時お世話した自閉症のお子さんと廊下でばったり会うとやはり即「ナカー」でした。私を見て、私の名前が出るまでの間の時間の長さといえば、一秒にも満たないものでした。

 

私はこの時のことを時々思い出します。この間髪を入れずに出て来る反応がいろいろなことを考えさせてくれるからです。何なのだろうと自問するのです。知っている人に久しぶりに会った時の反応にしては強烈すぎます。誰でしたっけ、という考える時間は全く省略されています。顔を見た瞬間にもう私の名前は彼らの記憶の中に存在しているのです。そうでなければ間髪をいれずに「ナカー」は考えられません。

 

私たちの記憶はたいてい時間の中に溶けてしまいます。忘れるわけです。嫌なことも時間のお陰で忘れられるのです。障がいを持っている人たちの記憶は半分は私たちの様に溶けているのだと思います。先ほどの二人が四六時中私のことを思い出していたから即座に私の名前が出てきたわけではないのです。ただ溶け方が薄いのでしょう。つまり上手く忘れられないということです。私を見て半ば条件反射的に私の名前と結びついたのでしょう。

忘れるというのは有難いもので、当時のことと時間的に距離を置くことができます。この忘れる、つまり時間的距離がもてるというのは私たちの精神生活にとって大きな意味を持っています。受け取った印象を忘れてはいけないという気持ちにとらわれずに、あれこれと好き勝手なことを考えられるからです。しかも、忘れてもそれを思い出すことができるので、一度受けた印象にしがみついていなくて良くなり、私たちの精神生活は解放されたのです。考える能力というのはそこに生まれたのです。

あの二人は無意識的に、病気だからということですが、覚えておかねばという記憶にとらわれています。つまり充分に忘れられないということです。思い出す能力が弱いのかもしれません。そのため思考能力が育つきっかけがつかめないのです。覚えておかねばという制約から解放された私たちに、考える生活が始まって、感情生活に余裕が生まれます。

障がいを持っているお子さんに共通した問題は対人関係の処理です。普通の社会では人間関係が複雑すぎて生きていけないのです。人間関係というのは思考生活によって余裕が生まれた感情の中で処理されるものといえそうです。

 

私たちの思考にとっても距離を置くというのは大いに役立つものです。

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