日曜版 7 母の日でしたのでよもやま話です。

2014年5月12日

今週で曜日ごとにテーマを変えて書くのは終わりにします。最後の週になりますのでよろしくお付き合いください。

来週からどうするかはまだ思案中ですが、一つの案として、その週のテーマを大雑把に決めて気の向くままに、ゆっくりしたペースで書いて、一週間でまとめるのはどうかと考えています。

週末に詳しくおしらせできると思います。

 

最近は小説を読んでいないことに気が付きました。いい小説は体になじむのですが、途中で取ってつけた様な印象を持ってしまうと、それ以上読めなくなってしまうものです。いい小説は言葉の力というのか、言葉によって導かれ、言葉によって見えて来る世界があって、読後感はとても絵画的なことがあり、言葉から絵が見えて来る様な小説は何度も読みたくなるものです。言葉から得たイマジネーションによって作られる絵画的なものは、他の人と共有できないものですが、それが却って自分の体験として自分の中に長くとどまっているものです。同じ小節から前に見た絵画的なものが必ず見られるかと言うとそんなことはなく、逆にそれが楽しみでもあるのです。ただいい小説には必ず絵画的な印象が伴っています。

 

目の前に掛っている絵を見ていてその絵から見えて来るものがそこで描かれたものだけで終ってしまうと詰まらないものです。いい絵ですね。上手にかけていますねという感じです。その絵から、今目にしている絵以上のものが見えて来ることか゛あります。その絵がきっかけになってい、その奥にあるものが感じられる様になると、ワクワクします。自分で作り上げる別の絵といっていいものが生まれる瞬間です。何故この画家はこの絵を書いたのだろうと自問しながら見ていることもあります。もしかしたら、自分で作り上げるもう一つの絵というのは、自分勝手なことを言わせてもらいますが、その絵の原型かもしれないなんて傲慢なことを思うこともあります。もしかしたら画家はそれに似たものを最初は見ていて、それから絵画的技法を通して今目の前にしている絵になって行ったのかもしれなのです。そんな時、深く絵に出会った様な感触があります。絵というよりも画家が描こうとした絵に出会った様な感じです。それは他の人と共有できないことがほとんどですが、たまたまそのことを話し手良く似た様な体験を持っている人と出会うと、とても近い人の様な気がするものです。

 

音楽を聴いている時にもよく似た経験があります。演奏家によってはその人が演奏している音楽が見えて来ることがあります。音楽というのは本来は見えるものではないのに見える様な錯覚を持つだけなのかもしれませんが、最近は昔の様な迷いが消えて、やはり見えているのだと確信しています。小説を読んで見えて来るものとは違い、透明感があって流動的です。しかし必ず映像を持っています。

演奏によっては何も見えてこないものだってあります。そうなるとただ音を聞いているだけの仕事ですから聴覚が疲れてしまいます。正直な印象をいうと、最近の演奏家たちの傾向は音楽が見える様には演奏してくれないようです。技巧的なものは凄味があるものに出会いますが、なんだか曲芸的なアクロバットを見ている時の様なスリル感はあっても、心の中に映像的なものは浮かんでこないことが多いのです。自然と音楽会から足が遠のいてしまいます。

 

自分というのも、自分を定義するという形からは見えてこないものだと思っています。イメージ的なところがあって、とても流動的なもので、手にと取ろうとすると消えてしまいます。じぶんというのは生きもので、常に変化しているところもある様です。時間的に成長の中でも、また状況的にもです。

そんなところが画家が何度も自画像に挑戦するところの様な気がしています。

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