言葉について思うこと その三

2014年6月1日

言葉と真剣に向き合うことは日常でもよくあるものです。向き合うという言い方が不自然かもしれません。

言葉というのは母国語の場合はすらすら出て来るもので、言葉というのは難しいことを意識しないですらすら出て来る時、健康な状態と言えるのです。

言葉に向き合うというのは少し構えているところがあるので、言い方を変えてみて、言葉に詰まることがあるものですと言ったら、ああそうかと納得してもらえるかもしれません。

 

講演にしろ、演説にしろ、井戸端会議の時にせよ、話しをしている途中で何を言ったらいいのか、どの様に言ったらいいのか解らなくなって、頭の中が真っ白になり咄嗟に言葉が出てこないことというのはよくあることで、そんな時のことを言っているのです。

その時は話しの流れが止まってしまうので恥ずかしいものですが、後になって振り返ってみると、あの時が一番言葉と近いところにいたと、却って有難く感じたりするものです。

私も実は、たぶん聞いていらっしゃる方には悟られていないかもしれないのですが、講演をしている時によく言葉に詰まっています。私の場合は、実際は言葉に詰まっていながら、ですから心の中ではどうしようどうしようと苦しんでいるのですが、そのことをひとまず置いて別の話しにずらしながら本当に言いたいことを、そのために必要な言葉を探していたりするのです。

 

立て板に水というのは言葉がすらすら出て来ることを譬えているのですが、この言い方は話術に優れていると褒めている一方で、饒舌が過ぎると逆効果ですよと警告しているところもあるのです。個人的には、講演している時には話しに流れて欲しいと願っています。その流れは饒舌といわれるおしゃべりとは違うと考えています。

何処が違うのかといわれてしまいそうですが、おしゃべりというのは言葉に詰まることはなく、勿論言葉を探すこともなく言葉に追い立てられながら、言葉が言葉を生むように喋っているだけで、往々にして空回りで終ってしまうものですが、私の場合は話しながら言葉に詰まっていることが随分あって、言葉を探しながら話しをしているため饒舌とは違う物の様に思っています。いつも自分の中にブレーキの様なものがかかるのです。自分でブレーキをかけるのではなく、原稿を読んでいるわけではないので、その時その時に生まれて来る話しの流れの中から突然何者かによってブレーキがかけられてしまうのですが、そういう中で必死に言葉を探している時に、直観的にインスピレーションの中から新しい言葉が降りて来て再び話しがつながってゆくということが起こります。

言葉というものは性格上、過ぎたるは及ばざるがごとしという諺が示す様に、基本的には少なめに抑えた方がいいものの様です。ではとつとつと喋る人がいいのかというと、とつとつがポーズのこともありますから一概には言えませんが、その人の性格にあった話し方が、一番、相手に届いているものです。

説明に走ると饒舌になる傾向がある様です。説明よりも事実に忠実になることを心掛ければ、言葉の空回りだけは避けられそうです。とつとつと喋る人の方が、それがポーズでない時ですが、説得力があったりするはそのためです。とつとつとした流れの中のほうが直観的なものが降りて来やすいものがあるのかもしれません。

 

いまの時代は何でも早く早くですから、インスピレーションが降りて来る暇がないのかもしれません。直観的なものからは遠ざかってしまいました。その代わりに知的な力で言葉を見つけようとしていて、辻褄合わせに終始しているだけなのかもしれません。

直観的なインスピレーションは時には怖いものです。経験がない人には想像がつかないことで何がそんなに怖いのかといわれてしまいそうですが、自分でも予測のつかないことが向こうからやって来るから怖いのです。予測がつかないだけでなく、直観的なものにはどうしてそうなのかという根拠づけがたいていの場合無いためこちらの腹が据わっていないと直観に振り回されてしまいかねません。直観が教えてくれるものというのは過去の延長に置けません。そのため知識や経験では処理できないもので、しっかりと受け入れるためには唯一勇気だけが必要な物の様です。

 

詩の言葉は流れととつとつとが混ざっています。説明でなくインスピレーションから生まれる直観的なことは、おしゃべりや散文の時とは違うものが相手に伝わります。

もっと普通の生活の中で詩を書けばいいのにと思うのです。詩になる様な言葉を思い浮かべるだけでもいいかもしれません。日常がその時だけ違うものになっているからです。

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