神様、ゴッドの話
ヨーロッパの神様はゴッド、ゴッドファーザーなどいう風に使われている、あのゴッドです。
昔インド・ドイツ語の専門家から聞いた話なのですが、彼によるとこの神様、ゴッドは普通の言葉と少し違うものだというのです。
夏に咲く「ひまわり」の花は「ひまわり」と名付けられています。これで文章を作ると、これは「ひまわり」です、と言えます。この「ひまわり」は特別大きいですね、という風になります。あるいはゴッホの「ひまわり」の絵は有名です、という具合です。
ところが神様、ゴッド、は、これは「ゴッド」です、という風にはならないものだというのです。
日本語では、ほとんど説明がつけられない類の話で、よく解らなくてその人に何度も聞き直した覚えがあります。二十年くらい前の話です。最近ようやくわかりかけています。
神様、ゴッドは「ものの名前ではない」ということです。そこにあるものに付けた名前ではないのです。
神様、ゴッドは普通のものの様には存在しないもので、だから名前として付けることができないということです。
「そこにあるお茶碗をとってください」、という時、お茶碗がそこにあります。ところが神様、ゴッドは違います。「そこの神様、ゴッドを取ってください」という風にはならないということだったのです。
では神様、ゴッドは何かというと「呼ぶ時にだけ現れる、呼ぶ時にだけそこにいる存在」だそうです。呼ばなければいないのです。呼ばない人には現れないということです。
これで解ったのです。唯物論者は神様、ゴッドを呼ぼうとはしないですから、呼ばない人には現れないので、「神様、ゴッドはいない」ということになります。「いるなら証明してみろ」という考えが唯物論丸出しだということだったのです。
私たちは言葉に鈍感になってしっまたようです。
私たちが呼ぶ時にだけ現れる物があるんです。なんということでしょう。
そうすると神様、ゴッドとの関係を深めようとしたら、呼ぶ時の心の勢いを強めればいいということになります。真剣に神様、ゴッドを呼べば、向こうからも真剣に現れてくるということです。