芸術の奥義 - 子どもに帰る

2014年8月24日

先日、箪笥や押し入れを整理している時に、日本の陶芸家の方たちが丹精込めて作られた焼き物がいくつか出て来ました。

日常食事の時に使っている食器はほとんどがドイツのものですから、久しぶりに日本の焼き物に触れた時の感触は新鮮で、驚きでした。

ごわごわした荒々しい手触りのものが随分ありました。形がいびつなお茶碗は、驚くほどの数です。

 

西洋の食器の定規とコンパスで作られた様な形を規準とすればそれらは不良品でしかなく、値段のつけようもなく、「お好きな方はどうぞ持って行ってください」と、我楽多食器の中に放り込まれる運命をたどるのかもしれません。わが家に遊びに来たドイツの友人が初めて日本の陶芸家の焼き物を見たときに、「子どもが作ったみたい」、と言っていたのを思いだしました。形はいびつで、しかもざらざらした焼き上がりの感触を気持ち悪いと言って触ろうともしませんでした。

 

さて、久しぶりに「子どもが作ったみたい」と言われたぐい飲みやお茶碗を桐の化粧箱から出して眺めていて、「この陶芸家はようやく子どもの領域に達して焼き物が作れるようになったのだ」と直感しました。

理路整然とした寸分の狂いもない大人の顔をした幼稚性ではなく、迷うことなく周囲に素直に溶け込んでいく幼児性です。

 

いまの社会に蔓延しているのは社会への適応性です。資格を取って仕事ができるようにすることが、大人たちの子どもたちへの義務です。

大切なことです。

みんなが、就職口もなく、路上生活やホームレスというのでは困った社会になってしまいます。社会は機能しないでしょう。だから資格を取るために努力することは、間違っているとは思いません。

しかし、資格という考え方からでは整理できないものが人生の中にあることも事実です。

 

資格も取らずにみんながやっているものの一つに「親」があります。資格を取ってから親になったと言う人はいません。もし、親になるための免許を取ってからしか親になれないとか、三人以上の場合は特殊免許がいるなんていうのはどうでしょう。

一体何人が試験にパスして無事親になれるのかとても興味があります。

それより試験問題の作り方から興味津々です。

そして面接試験では誰が審査するのかと考えるとなんとなく背筋がぞっとしてきます。

 

突然話しを飛ばしますが、シュタイナー学校に子どもを入れるために何か特別な資格がいるのでしょうか。

ありません。子どもをそこに入れたいという意志が問われるだけです。

 

昔は大人になるために儀式がありました。今でもそれを実施している民族があります。文明社会から取り残されたということで、未開の民族、原始的民族と呼ばれている人々の間でてす。知性優勢の文明社会では失われてしまった肝試しの絶好のチャンスですから、観光の目的に組み込まれて人気があります。極めてシンプルな結果しか出て来ません。ロープにつながれ何十メールを飛び降りるか、その前に止めてしまうかだけです。知性社会に見られる「言いわけ」は通用しません。

 このシンプルさは単純で幼稚なものではなく、しかも知性的な白黒、善玉悪玉とも違います。

このシンプルさは人間の幼児性そのものです。幼児には迷いがない、そこに通じるものです。

 

これを書きながらピカソのことが脳裏をかすめました。

青の時代と呼ばれている苦しい葛藤の後に、彼が辿り着いた迷いのない世界はまるで子どもの絵の様な世界でした。

モーツァルトのオペラ魔笛にも通じることかもしれません。幼い幼稚な世界ではなく純粋で迷いのない幼児の世界でした。

ミヒャエル・エンデが「わたしの書いたものを初めに理解したのは、子どもたちだった」という言葉も印象的です。

芸術の奥義です。

大人の様な顔をした幼稚性は芸術を通して幼児性に昇華するのです。

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