心のこと  その六  自分から自我へ

2014年9月11日

自分というのは分からないものです。自分を決めつけようとすればするほど、自分というのは逃げてゆくものです。

 

自分のことを「わたしは、僕は」という時、ほとんどの場合他人と比べています。「わたしって、僕ってこういう人間です」「わたしの意見は」とはいうものの、その時に他人と比較して出た結論の様なものを頭に思い浮かべているものです。

今日は、そうでない自分もあるというお話しです。言葉の遊びに過ぎないといわれてしまうかもしれませんが、純粋自分です。

 

この純粋というのは、日常「純粋な人」という意味で使う純粋とは少し違って、浄化されたという意味に近いです。透明なとも言えます。

たとえばの話しですが、自分がこの宇宙でだった一人になったとして、それでも自分自身に向かって「わたしは・・」と言える時の自分です。他人との比較を通り過ぎたところで現れる自分だといえます。

他人と比較していた時の自分とは違うものです。それを自我といいます。自我は非日常的なものですから、日常生活の延長にはないためとても分かりにくく、心理学などもで自分と自我の区別がややこしいものになってしまいます。

自分から自我への道のりは、「遠いいです」でもなければ、「険しいです」でもなければ、「長い時間がかかるものです」でも無く、どの様に努力したらいいのか分からない様なところのあるものです。

自我というのは「無時間・無空間」なのです。

自分に就いて考える、自分を整理する、哲学書や心理学の本を読むというのは悪いことではないですが、日常の自分を超えるという特別な作業をしないと、日常の自分の延長に自我を置いていましいます。

自分をイメージすることです。それだけがここでは力になってくれます。

 

 

絵画の世界でよく耳にする抽象絵画と具象絵画という分け方ですが、絵を描くこと自体がすでに抽象的な営みなので、意味がないといえます。

何人かで同じ風景を写生してもみんな違う絵を描きます。どうしてでしょう。みんな抽象画を描いているからです。

写真でもよく似たことが起こります。風景写真ではそれほどの違いは出て来ません。特に最近のカメラはオートピクチャーに設定しておけば、カメラの方で勝手に写真を撮ってくれます。しかしスタジオでモデルさんを撮ったりする時には、何人かのプロが同じ条件で写真を撮ってもそれぞれ違うのです。

目で見たものが心の中で印象に変わります。それはすでに抽象化のプロセスです。そしてその印象を心から引き出して来ます。これも抽象的な仕事です。この二重の抽象化のプロセスで、絵というのはみんな抽象画なのです。

 

 

イメージはこの抽象化のプロセスのことです。

自分から自我への道のりに何が必要かというと芸術です。絵画のことは言いましたが、芸術は日常を抽象化しながら日常に新しい刺激を与えるものです。

自分というのは、自我の日常的な現れ方です。

 

 

シュタイナーは芸術を教育の中心に据えています。教育を芸術とまで言った人です。芸術は日常の経験の寄せ集まりではなく、日常超えて、抽象化して生まれるものです。その力が自分から自我へ向かう時に力になるので、シュタイナーは教育の中での芸術の重要性を示したのです。

芸術は日常を非日常化するものですが、そこでとどまるのではなく、再び日常に帰ってきて、私たちの毎日の生活を改革するもの、そう言ってもいいと思います。

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