文章の意味と意志
若い頃色々な人が書いていた文章読本を熱心に読んだものです。私以上の年の人にはきっとなじみのあるものだと思います。
最近はすっかり見なくなりました。一時期の流行現象だったようです。
川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫、丸谷才一という文章で名をなした人たちが綴る、文章のつまみ食いの様なところがあり、結構楽しんだものです。
色々な人の文章が例として挙げられていてそれに解説が施されているもので文章鑑賞の恰好の手引きでした。学校で現代国語や古典国語の授業で習わなかったことが随分あってワクワクしながら読みました。
文章読本は他人の文章について話しながら著者の文章世界を垣間みることが出来たのですが、それを読んだらすぐ文章が書けるようになるかと言うとそんなことはありません。文章を書くというのは全く別物ですから文章を書くための即効薬にはなりません。
文章を書くためにはどうしたらいいのか、よい文章を沢山読みなさいという人もいますが、私は半信半疑です。志賀直哉の様に他の人の文章はあまり読まない作家もいます。沢山読むことで語彙、漢字の使い方などの勉強はできても、書いているものに命が通うかどうかは、書く人の生きざまが問われています。目が大事です。今自分が見ているものにどのくらいその人が本気で関わっているのか、それに対してどのくらいの愛情で見ているのか、そこが決め手といえます。臨場感、その場にあたかも居合わせているかのように読者に思わせることです。自分で見たことが、感じたことが何処まで自分の人生に関わっているかです。つまり文章というのはそれを書いた人の魂が入っているかどうかです。読んでいる人に伝わるのはそこのところです。
文章上達の秘訣は自分を掘り下げることです。それだけです。堀の深い自分を作ることです。
五十になったら自分の顔を持てといいますが、文章も同じで文章にその人の生きざまがにじみ出てこないといい文章とはいえません。
最近の不思議な現象に、有名人の中に三十代で自伝を書く人がいることを挙げてみます。現代人にとって自分とは、外に向かっていかにアピールするかでしか語れなくなってしまったのでしょうか。そうだとしたら寂しい限りです。
それ以上にそんな自分では状況に簡単に呑みこまれてしまう危険を感じます。政治的に利用されたら悲劇です。
先人の文章で自分を鍛えた時代は過ぎたようです。文章は意味の伝達の道具でしかなく、かつての暗唱という文化は随分影が薄くなってしまいました。
ミヒャエル・エンデさんに彼の文章について聞いたことがあります。
「あなたの文章のバネは何処から来るのですか」
彼はこう答えてくれました。
「子どものころに母はいつも父のアトリエの後かたずけをしていました。私もよく手伝わされました。母は箒で掃きながらいつも長い詩を口ずさんでいて、一緒にいた私もいつしか覚えてしまって母と一緒に口ずさんだものです。その時覚えた詩は、直接私の文章に影響していませんが、底辺で支えてくれたと思います」
文体は文章を書いているうちに作られるものです。人の真似をして書いても、読む人が読んだらすぐわかるものです。意味としてはさほど違いがないものになっても、それを支えている文章に意志がないので、そんな文章は読んでもすぐに飽きてしまいます。
今これを書きながら、源氏物語の句読点のない文章を思い浮かべています。句読点がなければ意味が分からないと思うのは現代人です、もしかすると当時の人は文章の中に息づいている意志で理解したのかもしれないのです。