沈黙から言葉へ、言葉から沈黙へ  その二  

2014年9月20日

日本とドイツの間を行き来しているわけですが、言葉と沈黙の間を行き来している見たいです。バランスをうまくとらないと自律神経失調症になります。勿論ドイツが言葉で日本は沈黙です。

 

ドイツは言葉至上主義と呼びたくなります。

ドイツが言葉というのは、思っていること、考えていることを言葉にしないと気が済まない人が多いからです。ほとんどかもしれません。

確かに言葉は色々と代行してくれます。言葉になった方が分かりやすいこともあります。「そういうことだったんですね、言ってもらってよかった」ということもありますが、言葉では言えないこともあるわけで、その辺への配慮はあまり感じません。思っていること、考えていること、感じていることは全て言葉になると信じている様です。

 

この姿勢が、ドイツ人がこよなく愛している討論、ディスカッションを支えているわけですが、ドイツ人の討論の仕方は問題ありと見てますから個人的には評価していません。理由は、自分のことが何より大切だからです。相手の言葉に耳を傾けることなんかどうでもいい様に見えることが多いからです。言葉による喧嘩の様な体たらくですから、日本人は語学力の点でよりも、体力でついて行けるものではありません。

相手の言っていることを聞いている様に見えても相手の意見を認めて傾聴しているのではなく、自分の考え一回り大きくするためのよい刺激となるときです。英語でデイスカッション、ドイツ語ではディスクティーレンですが、参加者自身の思い、意見をぶつかり合わせる場という風に考えていいと思います。自分の意見を言い、自分自身の立場を守るのが戦法ですから、討論によって生産的な事が起こるとは考えられなのです。

 

ドイツで生活し始めてドイツ語が分からなかった頃は、意見を戦わせているドイツ人たちは格好よく見えたのですが、ある程度ドイツ語が出来るようになって、討論の実態が見えて来てからは気抜けしてしまいました。今も自主的に参加する気はありません。必要にかられて参加せざるを得ないこともあるのですが、毎回討論の仕方にうんざりしています。「人より先に言わなければ」という思いが強いですから、相手の言葉に肘鉄をくわわせてでも自分の意見を言います。更に中身は、自分がそのことに関してどれほどよく知っているのかを誇示すること、自己防御のための言葉のやりとりが主ですからうんざりです。

 

言葉の意味というのは、その言葉を使う本人にとっての意味でしかない場合がほとんどですから、唾をとばし声高に言うだけでは相手に伝わらないものです。更に滑稽なのは声が大きくなればなるほど相手に伝わっていないという厳粛な事実です。相手の土俵で相撲を取るくらい懐が深いといいのですが。

 

 

「初めに言葉ありき」は「初めにロゴスありき」です。聖書でロゴスは言葉と訳されますが、ロゴスはそれ以上で、西洋の精神文化を支えたのがロゴスと行ってもいいほどです。論理的な事を意味するロジック、一般に学問の意味で使われるロギーはロゴスから派生した言葉ですから、ロゴスは哲学、ひいては科学全般のことなのです。

学問、科学は完成することのないものです。永遠に未完のもので、そこが美しいのですが、自分の考えが絶対である様な人が出ると学問は権威となり、醜いものに変わります。未完のものであると認める謙虚さの中に学問の美と将来があります。

 

謙虚さが備わって初めて意見を交換する、真剣に相手の言っていることに耳を傾けるという姿勢が生まれます。討論の陥っている落とし穴は、言葉が、ロゴスが完全なもの、完成したものと信じ込んでいるところにある様な気がしてならないのです。

 

意見を交換するというのは全く別物です。ドイツ語ではゲシュプレッヒといい、お互いの意見を聞きあうためにするもので、ドイツの文豪、ゲーテはこのゲシュプレッヒが精神生活にとって最高のものと考えていました。ゲーテがドイツに生まれたというのは何とも皮肉な話しで、ドイツがドイツを超えるために必要とした人物と私は見ています。

相手の考えを聞く配慮は尊いものです。相手と自分がシーソーの様に動きます。両者がお互いに相手の動きを補い合っている時一番美しい動きになります。

ゲーテはドイツの文豪といわれる人ですから、とりあえずはドイツで高く評価されているのですが、意外なことに、評価とは裏腹にドイツ人にとってよく解らない人でもあるのです。シラーの様にテーマを真っ直ぐに切りこんで行く人の方がドイツ的で、ドイツ人から評価を得ているようです。ちなみに太宰治の描いた「走れメロス」はシラーの長編詩「人質」を小説に書き変えたものです。

 

 

意見を交換できるののは自分が未完成品だという認識があってのことで余裕にも通じます。ロゴス、言葉が完成品だという驕りから、それは未完成品だという謙虚さがこれからの文化にとってかけがえのないものになる様な気がしてならないのです。

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