歴史とは、権力者たちの書いた私小説
歴史的認識などという言葉が徘徊しているので、少しだけ歴史のことに付いて書いてみます。
去年亡くなられた赤瀬川さんの言葉はとても的を得ていると、彼の言葉を思い出すたびに感動してしまいます。「権力者たちの書いた私小説」。
驚くべき慧眼です。この言葉に尽きるのではないかとすら思います。
世界で一番初めにできた学術の殿堂のことは皆さんご存知だと思います。それはエジプトのアレキサンドリアにありました。ところがこれは為政者が変わった時点ですぐに壊されてしまいます。なぜでしょう、邪魔だからです。そんなもの存在して欲しくないからです。政権を取ったものは自分に都合の良い歴史を作るので、そのために不都合なのです。地中海を次に支配した者によって、それまでの歴史的資料は焚書という方法で消し去られたのです。そしてその権力者にふさわしい物語が新たに語られるようになるのです。これが歴史です。storyです。
英語で歴史のことはstoryで、この言葉はフィクションを語ることを意味します。つまり歴史というのは、いつ、いかなる場合にも、誰かの作り話だという事です。historyは今は歴史という意味で使われていますが、そもそもは知識、知恵という古代ギリシャの言葉historiaで、時代をさかのぼれば登るほど、知識、知恵は神的な世界からのものとなりますから、historyで言われる歴史はstoryの歴史ではなく、神話的要素が強いものかもしれません。
日本最古の歴史の本は古事記です。この本も当時天皇制を確立した勢力が自らを正当化するために書いたものです。しかも神話的な要素をふんだんに盛り込んでいます。story とhistoryの融合したものなのです。日本書紀はstoryです。
日本の戦後にも焚書に近い検閲があり、多くの本が日本から消えてしまいました。新しい権力に都合の悪いものは皆アメリカに持ち出されてしまったのです。戦後何十年も経ってからそれらの一部は再び日本に戻されましたが、その時点ではそれらを読み取る伝統はすでに消え失せてしまっていました。
チベットでは今なお焚書によって文化の基盤が失われつつあります。チベット文化を支えた数百万冊もの本が燃やされてしまうと、チベットいう文化を次の世代に伝える資料はことごとく失われてしまいます。そしてチベットなどなかったのだと言いたいのでしょう。これが歴史です。
これが私たちが歴史と呼んでいるものの現実です。歴史は誰かによって作られたフィクションだということです。
historyをhis storyという人もいます。言語学者は否定しているようですが、とても的をついた言葉遊びだと思います。
権力者たちの書いた私小説とピッタリと符合するものです。