嘘の本音
人間は本当のことも言えますが、同じくらい嘘をつく存在です。
理想的には、人間とは本当のことを言う存在である、と通したいですが、現実を見ると嘘だらけで、人間とは本当のことを言う存在であるを信じる気持ちが大きくぐらついてしまうことがあります。
嘘が一番多いのは、皆さんもよくご存知だと思いますが、政治の世界です。次は政治絡みの歴史です。史実と言う言葉がありますが、ここからして怪しいものだらけです。
嘘にまみれた世界の人たちは、嘘をどこまで本当のこととして世の人に見せるかですから、そこで働いている人たちは「嘘の本当」を作ることに命をかけています。一番大切な道具は新聞テレビといったメディアです。
なぜ嘘と本当がごちゃまぜになるのかと言うと一つは欲で、もう一つはその欲が社会的な形になった権力のなす技です。
権力が何よりも幅を利かせているところが政治の場で、そこでは権力次第でどんな嘘も本当のことにすり替えられてしまいます。そんな場所で「本当の本当」を言っても台風の猛烈な風の中で蚊が飛んでいるくらいのものと思っていただけたらいいと思います。誰にも気づかれないまま消えてしまいます。
権力の座を欲している者同士が権力の座を狙って戦います。権力はそのため世帯交代を強いられていて長くは続きません。一つの権力と結びついた「嘘の本当」の命も同じように短いのです。権力者が変わってしまうと今までの「嘘の本当」が嘘だと言うことがばれてしまいます。しかし新しい権力の元で「本当の本当」が生まれるのかと言うと、そんなことはありません。次の権力に都合のいい嘘を、本当に見えるように塗り替えて、本当のこととして言い始めますから、別の「嘘の本当」が誕生するだけです。
視点を高いところにおけば、結局は、根本のところでは権力者の名前は変わっても同じことが繰り返されているだけと言うことなのです。
自分の子どもには「嘘をついてはいけません」と言って躾をしますが、そこで親は子どもに何を伝えたいのでしようか。
本当のことを言う子どもにしたいのです。本当のことを言える勇気を育てたいのです。
それでいいのだと思います。
なぜかと言うと、本当のことを言う時、人間は精神的に健全で、しかも体も健康だからです。
人間として透き通っていて透明感があります。
反対に嘘をつき続けると人間はだんだん暗くなって弱ってしまいます。
ちょっと端折った感じがするのでここで立ち止まってみます。
今まで本当とか嘘とかわかったような顔をして言ってきましたが、その境目はあるのでしょうか。あるとしたらどこにあるのでしょう。
一つだけはっきり言えるのは、世界共通の境目はないと言うことです。境目は一人一人違っていますから個人差のあるものです。ある人の本当は、別の人にとっては嘘だったりするのですから、厄介です。
しかもそこに先ほどの権力と言うものが入り込んでくると、外から加わる暴力ですから、本来は曖昧な境界線なのに、権力によってしっかりとした線が引かれてしまいます。世界共通の境目こそ「絶対嘘」なのだと言いたいほどです。
科学世界では、悪意のない嘘が存在しています。
新しい事実、本当が発見されたりすると、それまで科学的な事実、本当として認められていたものが崩れ去ってしまいます。簡単に言うと嘘として扱われることになります。
一つ例を挙げると、今から百年前の科学的な真実、本当は、人間は毎日二百グラムの動物性たんばく質を食べなければいけないでした。
今はそんなことを言ったら嘘つき呼ばわりされてしまいます。
しかしそこには悪意があったり権力による暴力があったりと言うことは、多分、ありませんでした。嘘ということになってしまったそれまでの真実、本当は、人間の科学的な検証能力の限界によっていたのです。おおらかに言いますが、その嘘は許される嘘です。それが許されるのは、科学が究極的には真実、本当に向かって絶え間なく努力しているからです。
スボーツの世界では新記録が出るたびに今までの記録は塗り替えられるわけですが、かつて百メートルを十秒で走っていた時代を嘘だとは言いません。人間の限界に向かってひた走りしていたことには変わりないからです。
百年前に「私はいつか月に行く」と言ったら、大ボラ吹きの大嘘つきと見られたはずです。その嘘はその後の人間の努力によって嘘どころか輝かしい真実、本当になってしまいました。嘘から出たマコトです。
そんな風に変わるんだと思うと、私もなんだか楽しい嘘がつきたくなります。
今日も私たちは嘘と本当の間を生きています。
嘘と本当の間に不確かな揺らぎを感じながら生きていられることを私は幸せに感じるのです。