見える音 そして音の中心のこと

2012年5月8日

 

その道を極めた人は不思議な静けさを持っています。迷いのない静けさと言える上等な静けさです。

その人たちにお話しをうかがっても、決して、極めたとか、到達したなんて言いません。驚くほど謙虚です。

まだまだです、その人たちからいただける唯一の返事です。

しかしそれは迷いのまだまだではなく、きっぱりとした自信の裏付けを感じさせます。

迷いを感じさせないということは焦点が定まっているのでしょう。

実にうらやましいです。

 

人の心はいつもざわついています。心の中を去来する想念は一日に数万あると聞きました。

自分だけでなく、他の人を見ていても感じることです。

その想念に振り回されていると静けさとは逆に、心は騒がしいものになってしまいます。

どうしたら心の中に静けさが作れるのかと考えます。

思いつく方法は、一つのことに専念することでした。

無心にという言葉は、心をなくすことではなく、心の中の雑念をなくすことです。

一つのことに集中してみるとそれしか見えなくなります。余計なものにとらわれないで済みます。凡人にとって、心の静けさを得るための一番の近道ではないか、そう思います。

 

今、ここ何週間か、ライアーに集中できない自分がいます。

ライアーの音に自分の心を打ち明けられないという感じです。

どう弾いてもライアーは今よそよそしく、過去の思い出の中に消えてしまうのです。

本当に弾きたい曲を弾いたらどうですか、と友人はいいます。

本当に弾きたい曲か、と頭を抱えてしまいます。そしてしまいには随分無責任なことを言うものだと開き直ってしまいます。本当に弾きたい曲を弾く、そんなに深刻になったらきっと命が持たないだろうと、私は考えています。

なんとか今の状態を抜け出したいと思うのですが、いい策が見つかりません。

 

私の抱えている症状は、とにかく音が解らないのです。聞こえはするのですが、困っているのは音が見えないのです。

今までは音を見ながら弾いていました。音はよく見えるものでした。それが見えなくなってしまうと、為す術がないというところです。

音は見えるものです。そして見えるととても現実味があるのです。

音を聞いているだけだと、音に吸い込まれて自分が消えてしまいそうになります。

音に振り回されている様に感じることもあります。

音が見えている時は、自分がしなければならないことが解っていたような気がしました。

音が見えている時には、いつも音は静かな世界にありました。

鳴っているだけの音、聞こえているだけの音は貧弱で騒がしいです。しかも自分との接点が僅かです。

ライアーを沢山弾くようになって解ったことですが、音が見えないのは、音に中心がないからです。

音は中心を持ち始めると見えて来るものなのです。

きっと今、自分の中心が見えなくなっているのだと思います。

 

 

 

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