教育の夢を語りましょう

2012年5月16日

このブログの場所を借りて、しばらく、シリーズとして教育のことを語ろうと思います。

教育です。目がくらむほど広い世界です。更に、今日教育界が抱えている問題は多岐にわたっています。

制度としての教育、経済的負担の解除などは、教育の外枠を社会的に援助する大切な仕事です。

そこを無視しては、教育が社会的に成立できないことは明らかです。

しかしそれをこのブログで語っても意味がないことも一目瞭然です。

また授業法、カリキュラムのことなどにしても、ここで語るにはふさわしい問題ではないと考えます。

 

私が教育のことを考える時にいつも願っていることがあります。

先ず私は、教育とはスケールの大きな仕事だと考えています。

このスケールは人間か゛生きて行くことと同じくらいの規模です。

しかし実際にはどうかと言うと、教育は専門家たちの世界に閉じ込められています。

その仕事に携わっている人たちは、高学歴の優秀な人たちがほとんどです。

教育学者と呼ばれる人たち、教育心理学者、先生と呼ばれている人たち、教育委員会、文科省の人たち。

こう見ると、確かに視野は狭いとはいえず、広そうに見えます。

しかし、教育のスペシャリストたちの間で、優秀な頭脳の間では教育は一面的なものです。

では一体どうやってそこを飛び出したらいいのでしょうか。

 

それ以外の人たちはどの様に教育にかかわっているのでしょうか。

つまり素人は門外漢でいいのかということです。

親として、親戚のものとして、ただの人として、指を抱えて見ていればいいのかということです。

教育は、人を育てる仕事です。

ここが制度としての教育、優秀頭脳に振り回されると見えなくなってしまうところです。

教育は人を育てるのです。

素朴なことです。

しかし深いことです。

その視点に立てばみんなが参加出来るものになります。

人を育てるのはみんなの仕事です。

職業的な区別なんかはそこには無くていいはずです。

教育が、今日の様に学歴、成績というものに振りまわされている間、どんな改革案が出ても旧態依然のままです。

ここを抜け出すことでしか教育は新しい光の元に出ることも、新しい地平線の上に立つこともないと考えます。

 

では、一体教育を変えようとする時、どこに焦点を合わせたらいいのでしょうか。

私は教師だと考えています。

教師は教育の中心にいます。

つまり教師が変われば教育は変わると豪語するのです。

勿論一人とか二人と言った少数の教師が変わったからと言ってそれですぐ教育が変わることはありません。

教師像です。これが変わってほしいのです。

教師になろうとする人が心に抱く理想が今の教師像と別のものになれば、教育は変わります。

確実に変わるのです。

 

教育の仕事の核心は育てることです。

それは間違いないと思います。

そしてそれは人との出会いの中で、一番活発に成立するものです。

教育のメソードが変われば、教育の見栄えは変わりますが、教育の中身を変えるのは教師です。

教師とは何なのか、教師のあり方、教師像、教師の理想像が変わる時です。

今教師の、先生たちの夢を語る場所がないのではないか、そんな気がします。

それでは教師たちは、先生たちは窒息してしまいます。

今教師の、先生たちの希望を聞く場所がないのではないか、そんな気もします。

現代社会は問題をほじくるのが得意です。

人間生活には問題が付きものですから、そんなもの探さなくても、至るところにあるものです。

それをわざわざ掘り出して、突っつき合うのは現代病です。

みんなそれで病んでしまうのでしょう。

そんなことをしても問題は解決しないのではないか、そう考えます。

教育はスケールの大きなものです。

それを支えている先生たちもスケールの大きさを見に着けてほしいのです。

先生たちも沢山夢を持っている筈です。

それを豊かに語る時、先生を軸にして、今までは違う教育の世界が開ける様な気がするのです。

是非先生たちに沢山の夢、希望を語っていただきたい、そう願っています。

その中から見えて来るものがあると信じています。

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