夢を語れる先生であってほしい
私にとって教育といえば先ず先生のことです。
教育の中で先生の役割は大きなものです。
大変な比重を占めているはずです。
ここでは、とかく忘れがちになる先生の存在を改めて認め、先生のお仕事を賞賛したいのです。
先生がいないと教育は成り立ちません。
学校というのは、教育の歴史から見て、これは人類の歴史そのものですが、新しいものです。
学校は無くても教育はできるのです。
しかし先生は教育に絶対に必要なものです。
教育とは先生と生徒の間に起こる熱いドラマです。
時代をさか登ってみましょう。
先生はいつも権威を持って生徒の前に立っていました。
先生は上で、生徒は下でした。
この上下関係は長いこと教育の中に安住していました。
しかし、一大変化が起こりました。
シュタイナーが教育は芸術です、と言った時から、教師は芸術家に生まれ変わります。
ここにシュタイナー教育の斬新さがあります。
教師は芸術家なのです。
生徒のことを忘れていました。
生徒は材料です。
先生と生徒、この二つの出会いから芸術作品が生まれます。
それは見えもしない、聞こえもしない、形のない無形のものです。
無形作品です。
芸術家は材料を知りつくさなければなりません。
彫刻家が鑿で力任せに気を削って言ったら、木はなくなってしまいます。
石の彫刻を作る人は力任せに石に向かうと石が壊れてしまいます。
粘土で彫塑をする人は、しっかりとした決断力がないといつまでたっても終りません。
絵を描く人は色のことをよく知っていなければなりません。
そして更に、それぞれの創作活動に道具が必要です。
作品を作っている時は、毎日が新しいものです。
昨日の続きで仕事ができることなどありません。
日々新たに作品に向かえる人だけが作品を完成させます。
芸術活動は、だらだらした毎日の連続からは生まれないのです。
一方、作品に取り憑かれていても、創作活動は前進しません。
どこかで作品と距離を保ちながら、作品と対話するのです。
芸術的創作活動には終わりがありません。
小説家は原稿の締め切りがあるから作品が仕上がるのです。
締め切りがなく、「いつまでも書いていてください」では一生に一つの作品もでき上らないかもしれません。
教育という創作活動にも学年という単位の終りがあります。
あるいは卒業という終りがあります。
その後は子どもは独り立ちして行きます。
買われていった作品が、絵にしろ、彫刻にしろ、どの様な空間でどの様に生き始めているのかは解らないのです。
小説にしろ、音楽にしろ、どの様に読まれ、聞かれているのか解りません。
それはもう芸術家の手を離れたものなのです。
卒業した子どもたちもどの様な人生を作って行くのか、先生には解らないのです。
教育を芸術とみなし、教師を芸術家とみなすことで、教育が抱えている未来への課題の一つが見えて来ます。
やはり夢を語れることです。
夢の無い芸術家は作品を生み出すことは無いのです。
夢は人間の創造の源泉だからです。
これからの教育は、教師を、子どもを見る教師の目、子どもを感じる感触を育てなけれはならないのです。
それはまさに芸術家の完成と感覚です。