真面目な先生たち
教育のこと、教師のことを考えると、そこに付きまとって来るイメージは、マジメ人間、です。
教育の現場、周辺は真面目な人の集まりです。
真面目な人しか教育には携われないということなのでしょうか。
しかし真面目一本の先生が子どもたちに人気がないことも事実です。
子どもたちの側からすると真面目というのは先生としては望まれていないのです。
しかし子どもたちが、いい加減な先生が好きで尊敬するかと言うと、はっきり言えます、違います。
ここはとても微妙なところで、言葉にしづらい所ですが、大切なところです。
今日は真面目を真面目に考えます。
真面目にも種類があると見ていいのです。
先ず糞真面目です。
これは厄介ものです。
教育だけでなく、社会の全ての領域で嫌われています。
この手の真面目は狭い人たちです。
自分の思いの中に世界が閉じ込められている人たちだからです。
自分が全てというものです。
ですから、自分以外の人、自分が知らないものを理解することはありません。
この手の先生のもとで学ぶ子どもたちは大変です。
自分たちが先生に理解されていないことをとても苦にしています。
糞真面目の苦手は自分以外のものを理解することです。
次は普通の真面目です。
この人たちも子どもの人気の対象にはならないようです。
真面目という匂いが子どもたちにとって駄目なのです。
真面目は結局は自分本位なものだということです。
糞真面目も、普通の真面目も子どもたちからすると大差は無いのです。
真面目な先生は自分の立場を、子どもがなんと言おうと、通してしまうからです。
子どもたちは先生が最後は自分の意見でまとめてしまうことを知っているのです。
自分たちの居場所がないのです。
真面目には弱いところがあります。是非知っておいていただきたいです。
真面目な人たちは自分本位の様に見えて、実は、自分の基準となるものは本人の中にはないのです。
矛盾したことが起こっています。
真面目な人はたいていは、実はほとんどなのですが、感じたり、考えたりする時の基準を外に持っているのです。
それがどうも子どもには臭うようです。
子どもは先生が自分たちに向かって、その先生の自分の考えで語っていないということです。
誰か偉い教育者の言葉を引用しても、子どもの心の中には入って行かないのです。
そんなよそよそしい他人事に子どもはしらけてしまいます。
先生がご自身の人生からつかんだ珠玉の言葉を語る時、子どもの心に響くのです。
話しがたとえ退屈なものでも、その話しは生きものです。
先生の生きざまです。
それが説得力です。
親御さんの側からすると先生というのはいつも、必ず、優秀な人であってほしい筈です。
人間としてはすぐに解らないですから、せめて成績的には優秀な人であってほしいのです。
優等生の様な成績優秀を、子どもの頃から学生の時までやっていた人たちを見てみましょう。
その人たちは、成績という基準に自分を合わせて生きていました。
この成績という基準は外にあるものなのです。
いつも外の基準に自分を合わせて生きていたのです。
そして外にあるの基準を、正しいと見るようになります。
真面目な人はいつも正しく生きているのです。
それは深く習慣づいてしまいます。
ですから優等生は、自分で自分を決めるよりも他人に決めてもらいたい人が多いのです。
その方が正しいからです。
他人がどう思おうとも自分はこうする、という、八方破れのタイプの人ではなかったのです。
そんなこと、真面目な人にはできないのです。
そんなことはしてはいけないと真面目な人は考えています。
そんなことをする人がいたら、即座に、それは間違っていると神経質に裁いてしまいます。
真面目というのは外に基準がある、これが先ず言いたかったことです。
そしてそれが正しいこととしてしまうということです。
そして間違っている人を正すのです。
そんな人が先生になると、その先生はいつも子どもを正しくしようと努力しているはずです。
そして子どもはっても疲れています。
自分の中に基準がある人というのはどういう人なのでしょう。
自分中心の様に見られてしまいますが、そうではありません。
自分の中というのは意外と流動的です。
どうしてかと言うと、いつも外に影響されて変化しているからです。
ご自身をよく観察してみてください。
自分が変わることを知っているということです。
感動することを知っているという言い方もできます。
でもそういう生き方の中の方に、今までの自分を超えて行く力があるのです。
人間の持っているすごみは、自分を超えることです。
それを自我と言います。
これが人間の中で一番ダイナミックなところです。
これは自分の枠を常に超えようとしているものです。
真面目は自分の中に閉じこもります。
自我がないのです。
だから真面目は自分を超えられないのです。
自分を超えること、超えられること、これは人間として魅力あるところです。
ここをやってきた人か、そこを通らずに生きてきた人か、子どもたちにはしっかり区別できるのです。
区別できるだけでなく、それを通して子どもは先生から影響を受け、成長するのです。
教育はいつも先生に押し付けられてしまいますが、先生だけがするものではありません。
親御さんも大いにかかわっているものです。
そして親御さんといえども、子どもに影響を与えます。
親御さんも先生と同じ様に、自分を超えるというダイナミックな生き方が求められているはずです。
親御さんにも自我的な生き方をしていただきたいものです。