上手になったと喜ぶ凡人と自らの下手を知る天才たち
その道の達人たちが上手になるということをどのように見ているのかとても興味があり、そこにフォーカスしながら、本で読んだりお話を聞いたりします。今の時点の感想を言うと、道を極めた方たちは、上手になるということを良いこととは思っていらっしゃらないようです。上手は落とし穴だと言いたそうです。上手は他人を意識したパフォーマンスに過ぎないと言っているようにも思えます。
先日偶然に元中日の監督の落合さんのインタビューをyoutubeで見ていたら、彼が自らのノックで育てた荒木選手のことを「どんどん下手になった」と言ういい方をされていました。インタビューの相手方がよくわからないと言うと、「言ってもわからないよ。だから今は説明しない」と言い捨てて、そのことにそれ以上触れようとはしませんでした。プロの第一線で活躍している選手が練習のたびにどんどん下手になってゆくという捉え方はいかにも落合さんらしいと思いながら聞いていました。
下手になったから、素晴らしい内野手になれたと言うのですから、つじつまが合わない話です。その時のやり取りを聞いていて、落合さんがますます気になる存在になりました。
上手の向こうに下手がある、つまり自分が思っている上手というのは、自分に都合のいい思い込みに過ぎず、その殻を破らないと本物ではないと言うことだと思います。そしてそこには新しい下手という新境地が待っているということのようです
しかしその殻を破るのは難しいもので、一人でそこを突破することはほとんど不可能に近いものです。
そのため普通は指導してくれる師匠が必要で、弟子を見抜ける優れた師匠はその殻を破る手助けをしてくれる存在です。良い指導者に巡り会うということが、今まで知らなかった地平線の上に人生を広げてくれるわけです。
時々師匠を必要としないような人が出てきますが、それは天才と呼ばれる人たちで、彼らは生まれながらにして枠を取っ払ってやってきます。上手下手の範疇に入らない人たちです。しかし天才たちは後続にとっての、人類的な規模の枠を作るのですから、特別で、特殊な人たちなのです。
子どもたちは上手と褒めてあげて、ある意味では枠の中に入れるように指導するのがよく、思春期を迎えその枠を外しながら自分の枠を作ることに挑むわけです。普通はこの順番で成長します。
しかしある道を極めるような特殊な才能の持ち主たちは、自分で作ってしまった枠をもう一度壊し、下手の世界を這いずり回ることができる人たちで、苦労の末そこから這い上がって、前人未到の世界にたどり着くのでしょう。
上手になったと喜んでいる凡人たちにはなかなかわからない世界です。