沈黙から沈黙へ
演奏している時何を考えているのですかと聞かれ、咄嗟のことで言葉にできなかった経験があります。
後味の悪いものが残り、その後で色々と思いめぐらしました。
一番いいたかったのは、「沈黙から生まれた音を聞き手の沈黙のところまで届けたい」ということのようです。
演奏は沈黙から沈黙への橋渡しです。
実はその時も沈黙という言葉はかすかに頭をかすめていたのですがその場にしっくりこないものを感じて使わずにいました。
使い古されているので他にいい言葉がないものかと探したのですが、その時は沈黙に代わる言葉が見つからないまま、別の言葉で濁してしまいました。その後、何かにつけ沈黙に相当するいい言葉はないものかと探してみましたが、今のところまだ見つかっていません。
沈黙。非常にインバクトの強い言葉です。
好んで使われる言葉のベストテンに入る言葉かもしれません。
改めて沈默という言葉を噛み締めてみると、意外や意外、使い古されているどころか、新鮮でもあるので不思議な言葉です。
沈黙に代わる言葉を探したのですが、今は沈黙でいいと納得しています。
音楽に限らず、絵画にしても作品が生まれるときにはインスビレーションが降りて来ます。ガサガサしているとき、心が騒ついているとき、ガツガツしているとき、ギラギラしているときは、インスビレーションとは無縁です。心が日常の利害関係に振り回されている間はインスピレーションが降り立つ場所が心にないからです。
日常的なレベルの沈黙もあります。それはただ言葉にしないだけで、黙っていることですが、もう一つの沈黙、非日常的沈黙とは違います。こちらは心の澄み切った沈黙です。
日常のざわざわから解放され、心が落ち着いている時に親しい人とお話をしているとします。
日常生活と同じように言葉を使うわけですが、何かが違います。同じ言葉なのに違うのです。うまく言えませんが何かが違うのです。
そこにはバケツの泥水が時間とともに泥と水に分離するようなものがあります。泥が沈殿し、水が澄んで行きます。心が落ち着いているというのは、日常のざわざわが沈殿している時で、心が透明な状態になっていることを指します。
沈黙は澄んだ心です。黙っていることが沈黙ではなく話をしていても沈黙はあるのです。演奏している時でも、色や形に没頭して絵筆をとっている時でも、つまり創造的に活動している時は、心を澄んだ状態に置かなければならないのです。そうして初めて沈黙から力をもらえるのです。
もしかするとその時すでに沈黙の中にいるのかもしれません。
講演をしているときも同様で、インスピレーションがないと話が進まないものなのです。講演にはテーマがあって、一応はそのテーマを念頭に置きながら話すのですが、しっかり準備して、これとこれとを講演の中で話すのだと決めないようにしています。そうてしまうと、話は進まず、途切れ途切れになって、だらだらと言葉が連なっている箇条書きのようなつまらない講演になってしまうからです。
インスピレーションから見放されている話は退屈です。話されれている内容が素晴らしくても、豊富な情報と知識にあふれているだけで退屈なものなのです。
インスピレーションが降りてくると、話をしている本人がまず感動します。話がワクワクしてくるのです。こうなったらしめたものです。言葉が言葉を産むという風になってきます。話はとどまることがなく、前へ前へと進んでゆくのです。インスピレーションからの言葉には迷いがないですから、話に勢いが生まれ、流れている川の水が綺麗なように、勢いのある話は聞き手を透明にし、聞き手の中のインスピレーションを駆り立てます。
講演者、演奏家たちに欠かすことのできないのがインスピレーションです。
インスピレーションと沈黙はとても近いものです。
人間は本来お互いにインスピレーションと沈黙で結ばれていると考えてはどうでしょう。