辞書の力より想像力

2018年3月15日

言葉の学習に欠かせないのが辞書です。こまめに辞書と付き合うのも外国の上達には欠かせないものです。ですから机の上の辞書には随分お世話になっています。

ところで辞書ですが、一冊を全部通して読む必要はないのでしょうが、試しにやって見たことがあります。国語の辞書でした。一気に通して読まれることを期待して作っていないので、ワクワクしながらは読めませんでしたが、もともと言葉が好きなのでそれなりに楽しむことはできました。読み進むうちにわかって来たのは、日本語の辞書からある程度生活感と言うか、文化の背景が伝わって来ると言うことでした。ですからあながち無駄ではなかったようです。

しかし外国語の辞書を通して読んでみようかと言う挑戦意欲は湧いてきませんでした。今の所予定にもありません。どうも気が進まないのです。

 

外国語の辞書の場合、わからない単語の意味を調べることが何よりの目的です。もちろん日本語の国語辞書の場合もそうなのですが、母国語の場合はわからないところが相当狭められ具体的ですから、知りたいことがすぐ見つかります。ところが、外国語の場合は単語を調べようと辞書を引いても、間口が広すぎててんてこ舞いで解決した経験はほとんどありません。解決しないことはないですが、こういうことだったのかと腑に落ちる解決は実に稀です。そして納得しないまま辞書を後にするのです。

例えば英語のある文章でputという単語でつまずいたとします。辞書を引いたらどうなるでしょう。

putは日本語でなんと言う意味かと言うスタンスで向かうとしっかり裏切られます。一つや二つの意味ではなく二十くらいの意味が目の前に出現して、目が眩んでますますわからなくなってしまうのです。迷路に迷い込んだようなものです。

 

似たような経験をずっと繰り返してきたわけですが、最近になって気がついたことがあります。putは日本人にとって、つまり日本語にすると二十ほどの意味を持つ単語になるのですが、putを母国語にしている人間にとってはそんなことはなく、putはputで一つなのだと言うことでした。一つというのは言い過ぎかもしれませんが、二十もの違ったニュワンスでも一つの塊として感じられていて、その中でお互いに密接に結び付いているのだということでした。しかもその塊の中はひじょうに活発ですぐに必要なニュワンスを導きだせるのです。

 

外国語の上達というのは、ここがポイントだと思います。

日本語にするとたくさんの意味に別れてしまっているものをどれだけ一つの塊に近づけられるかというところです。日本語では全く関連性が見えて来ないものだってあるので、一つの塊になることは永久にないかもしれませんが、とにかくどんなにputが来ても対応できるようになれば、相当の上級者です。

この塊は別の言葉で言うとイメージでしょう。

日本人であれば日本語を読みながら意味で理解していないのです。イメージ化して使っているはずです。言葉は意味として理解される時、とても貧弱なものになっています。意味というのは用途、目的のため、例えば機械の使用説明のためなどには便利なものです。意味はしっかりと定義づけされていますから、目的地までの道を説明したりするときに威力を発揮します。

ところが意味で説明されてわかるものというのは限られているのではないかと思います。物質的、機械的なものではないのでしょうか。

 

私は人間の心というのは説明の領域を超えたものだと思っています。もし心が説明されるものなら、心は何かの目的のためのものだということになってしまいそうです。人間とは、何かの目的のために機能する以上に、いくつもの可能性の中を存在しているものです。そこから考えられるべもののような気がするのです。説明では追いつかないものがいくつもあると思いますが、その一つが心です。

言葉が心の様子を伝えようとしている時、言葉は心をイメージ的に捉えようとしています。意味で伝えようとすると、相手が同じ言葉でも別の意味で理解している場合があり、誤解のものになります。

イメージで誤解がまぬがれるかというと、そんな事はありませんが、時間の流れの中で理解にたどり着く可能性は高いと思います。イメージというのは何十もの意味が複雑に絡み合い結びついた塊のようなもの、あるいは何十もの音色の違う鐘の音が調和した一つとして響いているものなのかもしれません。

ある文化の中で生まれたイメージの結晶である詩が別の文化の中では理解しにくいのは致し方のないことなのかもしれません。それは言葉の中のイメージの力は母国語の中で豊かに生きていて、イメージの力の中で文化が育まれているからです。

 

コメントをどうぞ