砂時計

2018年9月28日

小学生の時、なんの時間だったか、先生が机の上に得体の知れない奇妙なものを置いて、「これで時間を測ります」と言って上下をひっくり返したのです。みんながキョトンとしていたのだけは鮮明に覚えています。

これが砂時計との出会いでした。「上の砂がカラになったら三分が経ったということです」と先生は言ったと思います。半信半疑で固唾を飲んで見入っていました。その後それは砂時計というもので、上のガラスと下のガラスの間にくびれた狭い通り道があり、そこを一粒か二粒の砂が通るだけの簡単な仕組なのに、案外正確に時間を測れるものだと知りました。クラスメイトと面白半分に教室の時計で砂時計の三分がどのくらい正確かを測ったものです。

砂時計は思いの外正確でした。

陸上競技や競泳のタイムを測るのには使えませんが、日常生活の時間の計測には十分活用できるものです。実際に台所で大活躍です。

時間を測るとは言っても時を知らせるために刻んでいる時計とは基本的なところが違います。一定の時間の長さを測るためのものです。しかも測る時間の長さは砂時計によって異なりますが限られている上、始まりは任意ですからいつ始めてもよく、とそんなところに遊び心を感じさせるものです。

先日、本当に久しぶりに「よくできたものだ」と感心しながら砂時計を眺めていました。そしていつもの癖であれこれと空想しながら遊んでいました。上にある砂つぶは測られるためのもの、下に落ちた砂つぶは測られたもの、測るための砂も測られた砂も同じ砂なのにと眺めながら(10回以上ひっくり返しをやったので最低でも30分は見ていたことになります)、上と下とでは何かが違うと自問していました。行き着いたところは、私自身の人生も砂時計なのだろうかということでした。上のガラスの中にはこれからの時間が詰まっているので未来で、下は今までにしてきたことの総体に見えてきたのです。ここまではすんなりいったのですが、くびれには少し手こずりました。

人生でくびれにあたるものを探すと、それは他でもない「今」です。つまり砂時計をヒントにして考えてみると、私たちが時間と呼んでいるのは今を通り過ぎ時に生まれる二つの姿、未来と過去で、それは今を境に分られるものなのだと、何かを発見した様に興奮しました。

普通時間の流れは、過去があって未来があってその間に現在という「今」が挟まれているという風に考えがちですが、くびれを「今」に例えられたことで、「今」の重みを再確認し、砂時計がとても近いものに感じられる様になりました。

砂時計が人生そのものだとすると、人生の長さはあらかじめ決められていることになってしまいます。砂時計は砂の量とくびれの幅が全てです。3分計の砂時計は3分を測るための量の砂が入っています。ということは人生もあらかじめ長さを決めておかなければならないということになります。砂時計はありがたいことに「だいたい」ですから、85年10ケ月23日12時間35分26秒00分の人生ときっかりではなく、砂時計の人生は「だいたい80歳分」でいいのかも知れませんが、それでも決められているには変わりありません。「人生は宿命です」と言う宿命論の前に立たされている様な気分になりました。

生まれた時には寿命や歩む人生は決まっているのかも知れません。私はそれも有りでいいと考える方ですが、そんなことはないと言う人もいます。結論の出ない水掛け論です。ただ人生という言い方に注意を向けると、著名人が人生について述べたことを引用していることが多いものです。また「人生というものは・・」とわかった様な顔をして言うとき、人生は形としての外枠の様なものです。例えば死ぬ時に自分の人生に対して「いい人生だった」と達観できるのは、今人生が終わろうとしている瞬間に、自らの一生を枠に入れられるからです。

人生は宿命か、それともそうではないのか。それは結論が出ませんが、実際に毎日を切り盛りしながら生きている時にはそうした達観は遠く、「今」の中に埋もれ、「今」を懸命に生きているだけで、外枠の「人生」を考える余裕などありません。

そんなことを考えながら、くびれを通っている一粒一粒の砂を見ていると、その姿がなんだかとても愛おしいものに思えて仕方がありませんでした。

砂時計で一番興味深いのはあのくびれのところです。生きている人間も砂時計も今を刻み続けているところはそっくりです。

 

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