思考とは直感なり
日本語とヨーロッパの言葉とは違います。違うだけでなく相当かけ離れたものです。
その違いは一言で言えるものではありませんが、あえていうと、日本語は状況の中でそれにふさわしい単語、言い方を見つけ用いるのに、ヨーロッパの言葉は言いたい事の内容が文法的に正しいかどうかが問われると言うところです。これは根本的な違いです。
一応日本語にも文法はあります。けれどもヨーロッパの言葉の文法と比べると違いが大きすぎます。日本語の場合文法といっても単語をつなぐ規則と言ってよく、ヨーロツパ言語の文法は数学の数式のようなもので、揺るがすことのできない精密な機械のような構造なのです。
それを家の外壁の修理に例えてみます。
何か言いたいことがあるとします。家の外壁の修理をしようとしているわけです。ヨーロッパの言葉は、言いたいことが決まると、文法という足場を組みます。そしてその上を歩きながら内容を述べてゆきます。修理の時に足場の上を歩きながら仕事するようなものです。文法に従わないと言うのは、足場がないと言うことですから、職人さんでしたら仕事ができないということになり、言葉としては言いたいことが相手に通じないということになります。従って文法を無視しては話せないのです。ところが日本語の場合は言いたい事がある時、文法という足場を組まず、その場その場で職人さんが梯子をかけて用を足すように、言葉を選び、言い方に工夫を凝らします。ちゃんとした場所に梯子をかけられるかどうかが大事なので、日本語は文法という足場に頼らなくても修理ができるのです。
何故日本語はそうなるのか。これには諸説があるのでしょうが、私は、考えている時の直感のなせる技だと考えています。直感というのは問いと答えが一体化しているもので、「なぜならば・・」と言うプロセスを必要としないのです。
では何故ヨーロッパの言葉が文法に頼るのでしょう。考えというのが論理的に構築されなければならないからです。論理的に筋を通さなければならないということです。問いを出してそれに理屈で辻褄が合う答え「なぜならば・・」大事だからです。しかしそこで得られた答えが正しいかどうかの保証はないのです。ただ論理的には間違いがないというだけのことだってありうるのです。
考えるというのは、知的な、しかも論理的なものとみなされがちですが、そもそも直感から派生しているものです。日本社会では西洋思想が入ってきてからというもの、論理的でなければならないということになって、「直感などでモノを言うな、よく考えてからモノを言え」、つまり「何故ならばをはっきりさせろ」「論理の辻褄を合わせろ」と言う風に、直感は肩身の狭い思いを強いられ、ついには顧みられなくなってしまいました。今日の日本の学校教育はこの路線に則っています。ところが皮肉な事に、論理的であることを旨としているドイツ語に意外な側面があるのです。「思いつく」を「光に照らされている(Einleuchten)」というのです。まさに「閃く」です。閃きから思考が始まるとでもいいたげです。いや、確かにそう言っています。こうしてみると直感はドイツ語の中でしっかりと存在感のあるものなのに、むしろ現代の日本人の方がその辺のことをバカにしているのではないか、そんな気がしてなりません。しかしこれは大変な悲劇です。日本人は勤勉に論理的に考えることを学びましたが、結局は論理的に思考するというのは向いていないと私は考えているのです。
私自身を見てみると、40年以上ドイツ語で生活していて、ドイツ語に相当洗脳されているにも関わらず、ドイツの哲学好きな知識人たちと話をしている時に、論理で話を進める力が彼らに比べてはるかに劣っていることを痛感するのです。だからと言ってドイツ人の話に全くついて行けないということではないのです。
ある会議の時です、非常に込み入ったことを話している人がいました。ドイツ語ですからさらに複雑になるのです。同席したドイツ人の中にも頭をひねっている人がいたほどでした。もちろん私も表は穏やかに繕っていても頭の中は七転八倒です。あるところから戦略を変え、彼の話していることを言葉尻ではなく、全体像というのか、彼が何故そのことを言いたいのか、何故あのような複雑な言い方で説明するのかを、半ば真剣に半ばぼんやりと聞くことにしたのです。話が終わった時でした、司会の方が私に「今の話をどう思いますか」と振ってきたのです。私がぼんやり聞いていたので、「解らない事があれば補足しますよ」と言う親切から私を指したのでしょう。ところが私は複雑な内容にも関わらず、全部ではなかったのですが要点は理解していたのです。その様子を見ていた話をした本人もびっくりしていました。単語の一つ一つを全部理解していたわけではありませんが、大要は掴んでいたようなのです。
会議の帰りに同席していたよく話をする友人からも褒められました。彼は長年の付き合いで私のドイツ語の語彙力をよく知っていますし、その時使われていた専門的な語彙が私の範囲を超えていたこともはっきりわかっていたのです。それなのに私が的を外さずに、内容を理解していたことが不思議でならなかったようで、「どうして解ったのだ」としきりに聞くのです。私としてもどのように答えたらいいのかわからず、「話し手の意志の部分に焦点を当てて聞いていた」とだけ答えました。その後もその友人に会うたびにそのことが話題になるのですが、彼は「お前は日本人だから直感があるのだ」と決め付けてきて、「俺もそれが欲しい」と仕切りにいうのです。
直感を磨く場はどこかと思いながら、昔空手の有段者の友人から聞いた話を思い出していました。
子どもに教える時に注意することは、体にいくつかある急所を教えないことなのだそうです。急所は闘っている時、そこを攻撃されるとダメージが大きいので守らなければならないところなのですが、「ここは急所だ」と教えてしまうと却って守れないものなのだそうです。教えられて頭で知ってしまうといざという時に咄嗟に守れなくて、教えないと体が直感的に知っているので瞬時に守りの態勢をとるものなのだそうです。
知ると言う事自体はいい事です。沢山知っていると便利な事があります。知るとは便利に通じるものなのです。しかし便利というのは生きる上で必ずしも有利に働かないものです。どのようにして知ったのかが知る時に一番問われているのです。知るために費やす努力、とくに執拗なまでの繰り返しのことを言いたいのです。よく言われるのは昔の人たちの方が直感を持っていたということです。日本では勘と言います。それは昔の方が生活が不便だった事、そして技術などを身につけるために師匠に言われるまま繰り返しを強いられていたことによるのかもしれません。
しかし何れにしても直感は考えるためには原点です。思考全体を円に例えれば中心点です。それは昔も今も変わらない事実です。そこを外して論理的なというところに走り過ぎ、辻褄だけを合わせると言うことになると、それはまさに机上の空論ということになってしまいます。中心点を持たない円はないのです。