頭ではわからないのが時間
時間がどこに存在しているのか私は知りません。
場所ではないような気がします。
私たちは時間を測るすべは持っていますが、時間がどこから来て、どこにあるのかはまだ発見していません。
石炭や石油のような資源はいつか使い切るでしょうが、時間はどうもそういうものとは違って、使い切ることはなさそうで使い放題です。
しかし時間を使うと言う感覚はありません。しかもいくら使って、電気や水道と違ってお金のかからないのも気抜けです。
もう少し具体的にみてみましょう。
私たちは一生分の時間をもって、あるいは預かって生まれて来たと言ってみてはどうでしょう。ただ短命だったり、長命だったりと一生の長さというのは人によって違うものなので、人それそれの時間の持ち分ということで平等などという考えの及ばないところです。
その人の一生の間にきっかり使い切ってしまうので、子孫に財産のように残すことはできません。
時間を節約するという考えはどうでしょう。私たちはそのために多大の努力をしてきました。色々な道具を発明しました。洗濯機などは良い例です。時間が節約できるものだという考えは、根拠が曖昧な割には、私たちを虜にし、しっかり定着しています。そしてそのために日夜時間を惜しまず努力しているのです。でも節約して何か得することがあるのでしょうか。タイムイズマネーなのでしょうか。
この考えの延長にミヒャエル・エンデが小説モモに登場させた時間泥棒がいるようです。
時間というのは本当によくわからないものです。どうわかっていないのかがわからないので、私たちの先人は時間のことをあれこれと言ってきました。思想家と言われる、しっかり考えられる人たちが考えた末発言してきたのです。が、未だわからずじまいです。いつの日かわかるようになるとも思えません。
もしかしたら時間は科学とか、哲学とかの頭のいい人たちの知的な作業からでは見つけられないのかもしれません。知的というのは意外と制約があってその一つは証明です。頭のいい人たちは証明を必要とするのです。なぜでしょう。きっとお互いに信じていないからです。知的とか頭がいいというのはイコール不審家なので、人の言うことを信じようとはしないのです。証明なんかしないで、存在していることを認められるようにならないと、時間のことの理解はダメなのかもしれません。
証明せずにあると認めるようになるのは、私たちが知的レベルを超えてからのことなのです。知的レベルを放棄してはそこに到達しません。早とちりの無いように。
遠いい未来にはそんな時代が来るような予感がします。
時間は私たちがそんなレベルに達したら、今目の前に木がある時、「ここに木がある」と言えるように、「ほら時間があるでしょ」と言えるのかもしれません。時間はかなりハイレベルです。