治療から治癒へ - 新田義之氏を訪ねて。
先日、45年ほど前に「人智学的観点から見た治癒教育の実践」を奥様と共訳された新田義之氏をお尋ねしました。私がドイツに行くきっかけとなったのは、この本であり、訳してくださった新田義之・貴代ご夫妻だったのです。
本の中に書かれていた内容と、そこに載っていたいくつかの写真はまさに衝撃でした。そこには障がいを持った人たちとともに生きながら、普通はそこにどうしても漂ってしまう暗さがなく、却ってのびのびとした大らかささえ感じられたのです。この明るさとの出会いは障がいを扱った書物としては初めての体験でした。そしてそれに加えシュタイナーの神秘的な思想と、障がいを持つ人たちとの具体的な社会実践という、普通はどう考えても結びつきようのない二つの世界が、文章と写真を通して一つに感じられたことでした。
新田ご夫妻との縁は、さらに続きます。私たちの結婚の折に、当日の式で親の代理をしていただいたのです。ドイツでの結婚式に両親にいてもらいたいとは思いつつ、言葉の通じない両親の通訳をしながら式を進めてゆくのは無理と考えていた時、交換教授としてドイツに来ておられたご夫妻に親の代理をお願いしたのでした。
新田義之氏の鵠沼のご自宅への訪問は今回が初めてではなく、私が日本に帰った時には定期的に顔を出すようにしているのですが、今回は偶然にも、先ほどの「治癒教育の実践」に話題がおよびました。なぜ今までこのことに触れずにいたのかが不思議でなりませんでした。氏があの本のタイトルに使われたHeilenの訳語に「治療」ではなく「治癒」としたのか、また「治癒」と「治療」とは何が違うのか、娘さんも加わり二時間に渡り熱く語り合いました。
もともとHeilenは「治す」という意味ですが、heilという形容詞「無事に、安全に、安心を願って」という言葉と関係する一方、「聖なる=holy」にも連なるものです。この本のタイトルはHeilende Erziehung aus dem Menschenbild der Anthoroposophieで、表面的に訳せは「人智学的人間の捉え方から見た治療する教育」となるのですが、それではあまりに露骨すぎます。露骨以上に無知です。というのは、ここでのheilendeは治療ではなく、安心して守るの意味だからです。また教育は間違っても治療メソッドに組み込まれるようなものではないからです。教育は文化です。この座標軸を押さえておかないと教育を見誤ってしまいます。文化の中で人は守られ育まれるので、教育を治療メソッドのひとつとして捉えたり、教育で人を治療すなどと考えるならば、人間を、そして文化をないがしろにしているだけでなく、教育を誤解したことになります。
新田氏はドイツ語に深く通じていらっしゃいますから、話は自然と、自動詞と他動詞の文法解釈に及びました。ここでは私流に解釈したものを述べておきます。例えば英語のseeとlookの違いで、他動詞のseeは具体的に何かを見ることで、自動詞のlookは同じ見るでも見ている状態となります。ドイツ語では他動詞のsehenが英語のseeで何かを見るとなり、英語のlookは自動詞のschauenという言葉で、見ている状態を表します。周囲の360度全てに対してみる状態にいるということで、このschauenから世界観という言葉Weltanschuungが生まれるのです。この世界観という言葉は理解しにくい言葉ですが、自分が今どのような状態で世界に存在しているのかという意味で、イデオロギーと混同されますが、イデオロギーのように、ある行動に扇動するものではなく、のんびりと世界を見渡している状態なのです。例えば「ゲーテ的世界観」は納得できても「ゲーテ的イデオロギー」はゲーテの本質から外れています。自動詞は状態を表すbe動詞のようなところがあり、lookが見ている状態だと言ったように、行動としての見るよりも、どちらかと言えばぼんやり周囲を感じながら見渡している状態を説明しているのです。
治癒と治療とは混同されて使われますが、今述べたように違った働きを表しています。自動詞と他動詞、状態と行動の違いと言えます。おそらく最近になって混同が生じたのでしょう。昔は二つの違いははっきり認識されていたのではないかと想像します。そして現代という時代の流れの中で、治癒という捉え方は治療という勢いに飲み込まれてしまいマイナーなものになったと考えています。治癒は自然治癒力という言い方が示すように、私たちに内在する、健康になる力で治癒されることで、治療というのは外から施される施術を通して健康になると解釈してはどうでしょう。治癒と治療を比べるとわかりやすいのは治療の方で、病気の時に人に聞かれて答えるのは治療についてです。それによってどのように治癒していったかに耳を傾ける人は少ないと思います。
治療のことは確かに説明しやすく、そのためなのでしょうか、治療法が今日ほど多様化した時代というのはありません。なぜかと考えてみると、生活空間の中にあるものに治療という考え方からアプローチし、メソッド化して、健康に役立つ治療法として確立し、制度化し職業としてお金が取れるようなシステムに組み込んだことで、社会的な広がりが生まれたということです。音楽治療、絵画治療、温泉治療、森林治療など挙げれば枚挙にいとまがありません。
治癒というのは状態のことなので外からは見えないものです。治癒されてゆくというのは状態の変化のことです。「病は気から」ですが「健康も気から」なのです。そして変化の様子は本人の意志力に還元されるため、治癒について他の人に説明することは難しく、もちろん職業として社会的に広がる道も閉ざされています。治療する人を「何々療法士」とは言えても、治癒は本人の「意志力」が問われているだけですから職種としての肩書きにはならないのです。
治療に飲み込まれてしまった現代人の健康観を一面的すぎると感じるのは私だけでしょうか。もう一度「治癒」という考え方を思い出して、「治癒」という観点から健康を見直してみてはどうでしょうか。新田義之氏の先見の明が「治癒教育」と名付けたにもかかわらず、今日では「治療教育」と使われているようですが、heilが暗示的に持つ「安心を願って」、「安らぎのある」、「安全に」という意味をこの機会にもう一度噛み締めてみたいものです。