言葉と人間の心
言葉は人間が作ったものと考える人たちがいます。
自然界のいろいろな音を組み合わせてそこから言葉を作って行ったと考えるのですが、私はそれを受け入れることができません。
神は人間の被造物であるというのによく似ています。
人間の奢りを感じるのです。
科学的、学問的には証明できるもの以外は存在しないという考えですから、そう言う結論になるのでしようが、証明できるものがすべてだというところは証明できていないのではないか、そう反論したくなります。
言葉が人間によって作られたものとすれば、それはとても文明的なものになるはずです。そしてそこには廃棄物の様なものが出て、今頃言葉から生まれるごみ処理に明け暮れている様な気がします。
雪を見たことのない子どもが初めて雪を見て「この雪をどこに捨てるのだろう」と思ったそうです。北国の人が、内心笑いながら「雪は溶けるからだ丈夫」と大真面目に答えたと聞いたことがあります。
言葉のきれい人がいます。流れる様な言葉だったり、とても印象的な描写に出会うことがあります。
同じ言葉を使いながらそうした名人たちは、言葉に命を吹き込みます。
言葉は人間の心を通ることで変化します。その変化は多種多様です。同じ日本語なのに全然違う世界が生まれます。美しくもなれば、きたなくもなります。難しくもなれば、易しくもなります。
使う人の心のあり方で変わるのです。
雪が車の排気ガスなどで汚れることはありますが、雪その物はいつもきれいです。
言葉は新雪の様なもので、言葉を汚しているのは私たち人間だと言える様な気がするのです。
心の堅い人ほど言葉が難しくなる傾向があるようです。専門家にしか解らない難解な言葉を使っている人たちの心は堅いのです。
パターン化された言葉の使い方です。それでは言葉は死んでしまうのです。
頭が心を支配してしまうのかも知れません。
言葉を生かせるか、殺すかは、心次第だということです。
心のしなやかな人は易しい言葉を使います。だからと言って内容が浅薄なものかと言うと、違います。浅薄な言葉と、易しい言葉には雲泥の差があります。
心がしなやかになれば、易しい言葉で深いことが言える様になるのです。
易しい言葉の方が、難しい言葉よりランクは上だと考えていいと思います。
生きた、美しい言葉を使いたい。こうしてブログを書きながらいつも願っていることです。
しかし美しいというところはしっかり押さえておかないと、曖昧なものになってしまいます。蓼食う人も好き好きということわざ通りで、人それぞれに美しさの基準があります。
私はこんな風に考えています。
その人にしか言えないことを多くの人が解る様に言う時、言葉が美しいと感じます。
同じ単語が全く違う重さと輝きを放つのです。その人の人生経験がなせる業です。人生経験から心がしなやかになって、そのしなやかさの中で言葉はこなれ、易しくなり、聞く人の多くの心を打つのです。
言葉は人間の心の中に種を植え、それが心の栄養をもらって育ち、実を結び、熟し、新しい種となって、再び言葉の世界に持ち帰り、言葉の世界が豊かになります。言葉の世界も発展、成長しているのです。人間の心が大きな働きをしているのです。
人間の心を豊かにするというのは、「人間にとって」という意味を超えているスケール大きなことなのです。