いま直観が求められています - 直観の入り口に立って
西洋と東洋の間を行き来している言葉があります。
その言葉については今までにも何度か取り上げています。
英語ではit、ドイツ語ではesです。
どちらも非人称代名詞という立派な名前がついています。ところが、すこし意地悪な言い方をすれば、英語でもドイツ語でも、なにが非人称代名詞なのか上手く説明できないのです。
何故このわけの解らない言葉が西洋と東洋の間を行き来しているのか、私はそこにとても興味があります。それで今までにも何度か挑戦してきたわけです。
繰り返しがあるかもしれませんが今回も付き合ってください。
非人称代名詞なんて言わないで、「訳の解らないもの」といえばすこしは解りやすくなります。
英語のIt rains(雨が降っている)をその観点から訳せば、「訳の解らない得体のしれないものが雨となって降っている」、という訳になります。ドイツ語の場合も同じですからEs geht mir gut(とても調子がいいです)は、「得体のしれないものがわたしの中で上手くやっています」となります。
ドイツ語はヨーロッパの言葉、正確にはインド・ゲルマン語で古いものを沢山残しています。ですから単語の歴史を振り返ると、他のヨーロッパ語の中ではすっかり見えなくなってしまったものが見えたりします。
この非人称題名のes も遡ると意外な姿が見えて来るのです。
「お陰さま」です。以前にも取り上げましたが、私たちの行動、自然界の現象と行ったものを受け身的に捉えていたのです。
昔はお陰さまで考えています、お陰さまでお腹がすいています、などと言っていたのです。もちろんお陰さまで元気にしていますでした。
今日はそこを直観というものとの関係で見てみようと思います。
英語のit もドイツ語のes も受け身と見ていいと思います。
It rains は It comes to be rained と解釈できるかもしれません。
直観も受け身です。
何かを直観したと言っても、直観というものを通して何かが上から下りてきたのです。自力で直観をコントロールすることはできないのです。それではもう直観ではなくなってしまいます。
この直観は東洋の根本です。東洋には受け身の精神が貫いています。
西洋は思考的です。思考という論理性の中にいます。理屈で、今起こっていることを説明するわけです。全て説明がつくまで考え抜きます。能動的であり、起こっていることをコントロールします。そこには自意識が働いています。自分で、自意識で、自我でコントロールするのです。世界も宇宙も、果ては霊的な世界までも思考で整理しつくしてしまいます。
西洋が東洋を非人称代名詞で説明しようとした背景は、西洋から見て、東洋が西洋的な自意識を以っていないことを見抜いたからです。自意識なしで人間が存在できるということです。もちろん西洋ははじめ「そんなものは人間とはいえない」と豪語していました。
これは西洋では考えられないものです。西洋は基本的には自分中心ですから、自意識を持たないでは人間として存在していないように見えるのです。
歴史的に見ると、受け身的な「お陰さまで」という考え方が消えると同時に、自意識が現れ、自己中心的になり、自分でコントロールできるものが全てという考え方に変わります。それはとりあえずは今でも同じです。
東洋は「お陰さま」ですから、自我的コントロールが世界を支配している時は、時代の流れに乗れなかった文化というレッテルが貼られていましたが、西洋の自我的な文化、コントロール文化が行き詰まりを感じ始めたところから、受け身的な精神性が見直されるようになってきました。
そこに東洋が登場してきます。
今度は時代遅れとしてではなく、西洋の足りないものを補うものとして、あるいは新たな目標としてです。
自我的論理性から生まれた思考というものではない、お陰さまを基本に受け身的な直観が見直される様になったのです。
今ようやく時代の流れは直観の入り口に到達したのです。