門前の小僧
ゼロ歳の時からおじいさんの籠に入れられキノコ採りに出かけた人の話です。おじいさんが土地でも有名なキノコ採りの名人だったため、Tさんは気が付いた時には、門前の小僧の様に習わずしてキノコの生き字引になっていたそうです。
生き字引と呼ばれ一目置かれた訳ですが、大量の知識ではなく、経験で培った直感からキノコの育ち方、森の中でのキノコの現実を見抜くことが出来たのです。ですから実際には字引以上のもので、Tさんのことを聞きつけたキノコ研究の大家、某大学の教授、から目をつけられます。
ある日「たってのお願いです」と頼まれ一緒に山に入ってキノコ観察をしたことがあるそうです。
私がみるところでは、キノコとTさんの間には隙間がなく、竹のことは竹に習えが身に染みついているのです。身についているので特別に身構えることがなくいつも自然体でさりげなくキノコの不思議な世界を垣間見せてくれるのです。
「Tさん、キノコは毒キノコですよね」
「・・・?!」
「あの有名な 毒キノコの一種だと思うのですよ」
「・・!?」
Tさんからするとその年は雨が多く、キノコはそうなるといつもとは少し形を変えるとおじいさんからの伝授でしたが、教授のプライドを傷付けてはいけないと黙っていたのだそうです。その大家は大学に入ってからキノコに興味を持ち、コツコツと研究をした努力の人でした。とはいえ主な知識は書物からの知識でキノコを観察する姿は、キノコの生き字引のTさんからするといささか歯痒いもので、生徒さんを連れてこなくてよかったと言う場面はそれ以外にもいくつかあったそうです。
おじいさんは寡黙でTさんが大きくなって自分から質問するまで何も教えてくれなかったそうで、そのぶんTさんはおじいさんの仕草の一つ一つが目に焼き付いているそうです。おじいさんの存在が本当の意味で良い手本だったと述懐します。
おじいさんの動きが知識そのものだそうです。キノコを探しているおじいさんの目、その目はキノコだけでなく森の中の自然全体を捉えていたのです。キノコを見つけキノコに向かう時の足取りや姿勢が全てを語っていたというのです。
おじいさんはいつもキノコから呼ばれているようだったそうです。
Tさんがキノコの世界と一つになれたのは、おじいさんが何も教えてくれなかったからだとTさんは確信しています。教えられたことを子どもは覚える、そう思うのは大人の錯覚です。教えられたことを覚えると考えるなんて、とんでもない迷信です。実際は反対で、Tさんのように教えられないから覚えるのです。矛盾している様ですが、これが本当の学びの姿です。
赤ちゃんが生まれてすぐ言葉を教えられたら、赤ちゃんは言葉を覚えないでしょう。そんな風に覚えたら機械が喋る様に喋るかも知れません。教えないからパーフェクトに覚えるのです。教えられないから流暢に話せるのです。教えられないから言葉の本質が見えてくるのです。そうして覚えたものは揺るぎのないもので、自信となってその人の人生を支えるのです。
今日、敎育と言う名のもとに蔓延している多くの誤謬の本質がここにある様に思えてなりません。