人間、それは肯定する存在です
ドイツでの生活が随分長くなりました。三十五年です。
「ひゃー」と驚かれることがあります。しかしそれだけでは大したことではありません。
それを経験として生かさなければ、ただ指折り年月が過ぎて行っただけです。
ドイツの生活が長くなると、ドイツに住んでいらっしゃる日本の方に出会う機会が沢山あります。
「一口で言うと、ドイツにいらっしゃる日本人というのはどんな人ですか」と聞かれることもあります。
とりあえずは「みなさん個性的な方です」とお答えします。
しかし本音はすこし違い、「二つのタイプがあります」です。
日本的なものをすっかりなくしてしまう方と日本的なものを持ち続けている方です
別のいい方をすると、ドイツ風にはっきりと「ノー」と言える様になった方と、いつまでも「イエス」といい続ける方です。
そもそも日本人というのは「ノー」と言えないところがあります。
「ノー」が苦手です。
ところがドイツに来て、ドイツの生活に慣れると、ドイツ人がはっきり「ノー」という様に日本人の中にも「ノー」と言える様になる方が出て来るのです。
「ノー」ということが、ドイツに慣れた証の様に思っている方にも出会います。
ところがその「ノー」を自信を持って言う日本の方を見ていると、何かが不自然です。
同じ「ノー」なのですが、ドイツ人が言う時には随分感触が違います。
そこを今日はお話しします。
実はドイツ人も人間ですから基本は「イエス」です。
では「イエス」はどこにあるのでしよう。
彼らは自分に向かっては常に「イエス」と言っているのです。自分はいつでも肯定しています。
自分を肯定しすぎるあまり外に向かって「ノー」と言っているだけなのです。
ドイツ的「ノー」は自己肯定の裏返しです。あるいは自分を守ろうとする手段だとも言えます。「ノー」と言いながら自分の立場を守ろうとしているのです。
ところが日本の方が「ノー」という時には本来日本人として「イエス」と言っているところが「ノー」にとって変わってしまうので、とても不自然なものを感じます。日本人は外に向かっていつも「イエス」と言いたいのです。
そして外に向かって「イエス」と言いすぎるために、却って自分に向かってあまりに謙虚になり過ぎて「ノー」と言わざるを得ない状況が生まれたりするのです。自分に向かって、自己否定的なことも起こります。
もしかするとそんなところが日本で自殺者の数が毎年三万人を超える原因かもしれません。
長くドイツに居ると、日本人はもっと堂々と自分に向かっても「イエス」ということを学んでほしいと思うのです。