一は一番大きな数

2012年8月29日

一が一番大きい数といった人を二人挙げられます。

一人は老子、もう一人はシュタイナーです。

 

老子的に見ると、世界は一から生まれ、二に分離しそこから三が生じと、どんどん別れて、数が大きくなるにつれて価値は小さくなって行きます。

当時は億とか兆という数字はあまり意味を持たなかったでしょうが、億というのは一が億に分かれてしまったとても小さな数字で兆はもっと小さな数字です。

シュタイナーも基本的には同じです。

一が一番大きいのです。全てを包括しているからです。

 

今は医療、宗教、政治はそれぞれ独立したものです。

医療界の長老がいて、宗教界の長老がいて、政治の世界の長老がいます。

ところが時代をさかのぼると一つのものでした。医者であり司祭であり同時に国を治める人でした。

時代が現代に近づくほど職業化され、細分化されて何万という部署に分かれて行きます。

一つの部署の持つ価値は限りなく小さくなってしまいました。

 

医療を例にとります。

今は医療が素人には解らないくらいに専門的に細分化されています。

専門的になることはそれ自体よいことというのが現代的な考え方です。ですが、原因が解らない病気で病院などに行くと、いろいろな専門医をたらいまわしにされてしまうことすらあります。挙句の果てに実験的薬を服用され、病気になって退院ということも決して少なくありません。

医療ミスで死ぬ人が交通事故で死ぬ人よりも多い時代です。

専門家細分化にも落とし穴があるということですから、現代社会が誇る専門家はもろ手を挙げて喜べるものではないようです。

 

昔は一つだったということは、今日的視点からみると未分化だったということになります。

しかし今日、医療、宗教、政治にはっきりと分かれて行って、全く違うものと思われていますが、本当に違うのでしょうか。

よく見てください。基本的なところを見ると、やっていることには共通性があります。

医療は健康を守り、宗教は人の心を守り、政治は国の、民衆の生活を守るものです。

一つというのは、細分化されても、深いところで生きているのです。

 

シュタイナーの一般人間学では、教育の中に生きる力として、宗教と芸術と学問という三つの分野のことをそれぞれの立場から認めています。ところが将来的にはどういう展望があるのかというと、これらは再び一つになる方に向かうというのです。

シュタイナーの提示した教育はそのためのものでもあるのです。

 

今は教育の中では学問的なものだけが認められていると言ったらら言い過ぎでしょうが、教育の現実を見ると、芸術の時間はどんどん削られ、学校で宗教的なことを教えるという法案があるにもかかわらず、学校から宗教はオミットされています。純粋知的教育が今の教育の理念です。

人間が知的なものだけで生きる様になったら、人間はロボットになってしまいます。

 

シュタイナー教育を語る時に、総合的教育とか、全人格的教育などという言い方をしますが、具体的にはどういうことを言うのかというと、学問的感性、宗教的感性、芸術的感性が教育の課題の中にしっかりと位置付けられているということではないのでしょうか。

善、美、真ということです。

簡略化しすぎていると叱られてしまうかも知りませんが、善悪をわきまえ、美的センスに富み、真理の探究心が旺盛ということです。

 

シュタイナーの教育は復古調で未分化の状態に立ち戻ろうとしているのではないのです。

一つになろうとするのは未来形です。

細分化して、細分化しすぎて、それぞれに価値が無くなってしまったから、将来は再び一つにまとまる様になると言っているのです。

人間は一つからできているからです。

人間が人間らしくなるからです。

 

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