おかげさま世界観、あるいは誰でもない誰か。
自宅に閉じ込められ、コンピューターの前で過ごす時間も多くなり、普段できない検索に時間を費やしているためか、私のブログにたどりつく人も増えて、見ず知らずの人からとてもラッキーなコメントやメールをいただいて楽しんでいます。
その中で最近いただいたウィーン在住の日本の方からいただいたコメントがとても新鮮で、この機会に改めてコメントをいただいたブログを読み返してみました(ドイツ語の非人称代名詞Es、すなわちIch 。2012.7.23発表のブログです)。
タイトルからわかるようにドイツ語の文法の世界を扱ったものです。文法と聞いただけで顔をそむられる方もいると思います。確かに一般向けではないのですが、文法というのは何も文法の時間と文法のテストのためにあるのでは無いと言う点からすれば、国語や外国語の先生へのメッセージだということです。
文法は人間の生き方、考え方、感じ方に関わるものです。ところがそのことを教える先生方も忘れているようなので、そのことを喚起したくて書いたものでもありました。文法には、民族のある時代の特徴的な生き方のスタイルが窺えるもので、そのスタンスに立てればとても魅力のあるものですと言いたいのです。
ヨーロッパは中世から近世に移行するところで大変革がありました。神という概念を盾に猛威をふるった宗教支配からの脱皮と言われるものです。しかし中世のヨーロッパには別の側面もありました。宗教支配は一方通行ではなく、民衆の中に宗教を支えるものがあったのです。
現代の歴史的解釈からすると、暗黒の中世という言い方をされてしまいますが、今日のように、見えているものだけに光が当たっているのだという考えからすると、見えないものは物質を照らす光が当たっていないので、暗黒に写ったと言うことなのでしょう。しかし見えないものを照らす光があるということを中世の人たちは信じていたのです。いやそれどころではなく、確信していた中世の人にとっては、見えない神仏の世界は暗黒ではなく、日本語でよく言われる「おかげさま」の源だったのです。
そのことを暗示するかのような現象が実は古いドイツ語の文法の中にみられます。文法用語では二格、genetivと呼ばれているものです。genetivという言葉は天と繋がるという意味で、天才のことをgeniusと言いますが、点に繋がった人という意味です。
忘れな草(勿忘草とも書きます)という可愛らしい美しい青色の植物の名前は、ドイツ語でVergissmeinnicht、「私のことを忘れないで」と言います。忘れるというのは、今日では「誰かが何かを忘れる」、つまり「私はそんなことをすっかり忘れていた」と言うふうに使います。しかしかつては「私のことを神の加護で覚えていてください」という、少し無理があるかもしれませんが、祈りのこもった訳になると思います。
私流の言い方をしますと、ドイツ語にも「おかげさまで」という感性が存在していたのです。日本語でしか聞かれないような言い方だと思っていましたから、この発見は嬉しい驚きでした。そして私は二格、Genetivをおかげさま格と呼ぶことにしたのです。
この二格という目的格ですが、今日では、ただ一つの例外を残して、使われなくなっています。二格目的をとる動詞は「死んだ人を偲ぶ」というGedenkenだけです。この動詞だけが二格の目的語を取らざるを得ないのです。どうしてかというと、死んだ人は目に見えない訳で、はっきりと目の前で目的対象として扱えないものなのです。つまり二格という目的格は、見えないものを目的対象にしているということなのです。しかもそれが今日の「非人称代名詞」という、謎めいた言い方の中に姿を変えて留めていたのです。
よく、マイクロフォンのテストとをする時に「本日は晴天なり」と言います。これは翻訳です。英語の「It’s a fine day」、ドイツ語の「Es ist ein gutes Wetter」が原型です。どちらも主語になっているのは、非人称の代名詞という曲者です。なぜ曲者かと言うと、誰だかわからないからです。主語が誰なのか、なんなのかわからないと言うことです。主語とは行為を起こしている人あるいはもののことですから、この文章は論理的に考えたら成立していない文章です。わからない存在によって本日は晴天なのです。
言語学的、文献的には苦し紛れにでも訳を作らなければなりません。そこから生まれたものですが、正直、奇妙な訳です。なぜなら本日が晴天を作っているわけでは無いからです。晴天を作っているのは誰なのか、それは科学的にも今以って謎です。
おかげさまという感覚は、日本のお家芸ではなく、ヨーロッパにも昔はあったのです。その「おかげさまで」という言い方が無くなったと言うことは。人々がそのようには考えなくなったと言うことです。しかし昔あった習慣はすぐに消えてなくなるものではありません。ヨーロッパでは、近代以降今日に至るまで、それまで「おかげさまで」と言っていたものをどこかに隠したのです。
結論を言うと、隠したとは言っても隠し切れるものではなく、しかもどこにも持って行けず、唯物的世界観の中で、持て余したのです。しかしおかげさまが消えてなくなったわけではないので、いつかまた別の形で出現する日があるような気がします。それがどのようなものなのかとても楽しみです。
主語が特定できない時、つまり行為を引き起こしている人やものが特定できない時、現代語では、苦し紛れから登場した非人称代名詞が使われます。そこには、誰でもない人がいるのです。何物でもない物があるのです。昔は神様だったものです。
この文明の進んだ現代社会にあっても、ヨーロッパ語ではこの幽霊のような存在を主語にして話をしているのです。It’s a fine day、Esist ein gutes Wetterは、なんだかわからないがとりあえずいい天気だ、と言う訳でいいのかもしれません。
中世を暗黒と呼ぶ訳ですが、その暗黒は今でも後ろ髪を引かれるように姿を変えて現代を闊歩していると言うのが現実なのではないか、そんなふうに考えるのです。