癖の話し
私には沢山の癖があります。
今こうして書いている文章の中にも「わたしの癖」が出ていると思います。
その癖がどこから来るのかと言うと、相当の部分が私の考え方からですから、文章癖と言われているものは思考癖だと言えそうです。
考えたことだけが文章になると言いたいのではありません。
もし思考が文章ということになれば、文章ではなく箇条書きになってしまうはずです。
文章の中には思考と思考とをつなぐ力があって、それが読む人にとって興味深いものとなるのです。
文章が好きですから昔からよく著名な人たちの書いた文章読本というものを読みました。
川端康成、三島由紀夫、谷崎潤一郎の書いたものです。
世界的に評価されている名文家たちが文章をどの様に見ているのか、自分の文章をどの様に作って行ったのかなどが知りたかったのです。
今振り返るとそれは虚しい作業だった様に思います。
私が一番知りたいところは書かれていなかったからです。
では私が知りたかったのは何だったのかということです。
それはきっと癖と呼ばれているものです。
作家というのは文章を書いている時に半ばトランス状態にあるものだと信じています。
自動手記と言われているものに近いものと言うと反感を持つ人がいるかもしれませんが、私は作家がトランス状態で書いているものほど迫力があると信じています。
ルドルフ・シュタイナーの様な、冴え冴えと哲学書を書く人でも、劇を書いている自分を「わたしはトランス状態に入って書いている」と話しています。
泉鏡花は、登場人物と状況が決まったら後はあっち任せで書く、と言っていました。あっちというのは、登場人物たちが勝手に生き始めるということと理解しています。
作家はそれを追って行くのです。そして癖丸出しで書いているのです。
文章というのは癖でしか書けないものだと思います。
それは私たちが歩いたり走ったりする時に出て来るものです。
昔私の部屋は外の道に面していて、道を歩く足音がよく聞こえ増した。聞くとはなしにいても、外を歩いている人の足音が耳に入って来ます。そしてそれが誰かが解るのです。
文章も同じです。
文章には癖が生きています。それが文体というものにまで消化できれば文章が書けるようになります。更にそれが癖を超えて味になれば文章家と呼ばれる様になるのです。
夏休みの宿題に本を読んで感想文を書くというのがありました。
課題になった本の中から選んで書くのですが、特に感想らしいものがなかったのでしょう、半分は自分の感想、後の半分は解説に書いてあることなどを写して提出したことがあります。
先生はそこをちゃんと見抜かれて、そこの部分に赤線が引かれ「自分の言葉で書きなさい」と書いておられました。
私は相当上手く、というのは解らないように工夫して私の文章の中に挿入したつもりでしたから、「どうして解るのですか」と後で先生に聞いたのです。
「お前の臭いがしない」という一言でした。
大人になってから、文章の勉強と言って、名文と言われているものをそのまま写すことを随分しました。
そこでの経験から言うと好きな文章からは学ぶものがあるけれど、一般に名文と言われているものをいくら写しても自分の力にならないということでした。
好きというのはきっと癖が似ているのでしょう。
野球の選手を見ていると癖丸出しで野球をやっているのがわかります。
投手のフォーム、バッターの構え方。それぞれがその人にとっていた番居心地がいいわけです。居心地がいいから一番力が出るのです。
しかし素晴らしい選手は癖が持ち味になっています。
癖から持ち味までの距離は外から見ると全然ない様に見えますが、実際には想像を絶する距離です。
そこに気がついた人たちが「人生は短し芸の道は長がし」というのでしょう。
あるいはゲーテが言う様に「天才とは努力する才能である」ということだと思います。