ポジティブについての雑感 その二

2020年11月4日

先日のポジティブについての文章を書いた後、もう少し補足したいという気持ちになり、第二弾です。

私たちは物を買うことが主流の消費文化を生きています。それは容易に崩せるものではないと思うのですが、作る文化が復活すると私は信じたいのです。どんなものでしょう。

物作りと聞くと、みんな忙しくて時間がないと言います。作る文化にはお金もですが、何より時間が必要なんです。ところが、お金ができて、時間ができれば作る文化が復活するかというとそんなことはないようです。ちなみに時間と言うのはあるかないかでは語れなくて、作るか作らないかのものなのです。

今回のコロナ騒ぎの中、多くの識者たちがYoutubeで読書を推奨されていました。中には源氏物語をぜひ読まれてはというのもありました。とてもいいことだと思いました。ところが現実は、増えたのはテレビの視聴率と、ネットのクリック回数だということです。問題はやはり時間ではないようです。

 

ポジティブであるというのは、とにかく肯定的でいるということです。それを貫くことです。日常的には自分を含め周囲をおおらかに受け入れ、絶対に文句を言わないと決めるのもいいかもしれません。

三島由紀夫が「人を褒めるというのは実はとても難しいことだ」と書いていました。「批判するのは簡単だが褒めるのはレベルの違うものだからだ」という内容だったと記憶します。褒めると言うのは必ずしもポジティブにつながらないですが、ポジティブの仲間です。褒めるとき地に足がついていない褒め方をするし、何かにつけて不平不満に偏ってしまうのが私たちです。レベルが低いからです。ここ何百年かの間に染み付いた人類的な悪習ですが、そこに甘んじていては何も始まりません。人類的にレベルアップが必要だと言うことかもしれません。

自分を肯定するというのは、自分を立ち上がらせる力、立たせる力に似ています。大きな木の幹のようなものです。札幌から旭川に向かう途中に原生林を残したところがあります。開拓の時に全部を伐採してはいけないと叫んだ有志の働きかけで残されたところです。そこを歩いていた時にまだ人間の手によって邪魔されていない原始の自然のままを生きている木は、喜び歌っているようで、歌声が聞こえるようでした。木が立っているというのは喜びの姿だとその時知りました。

喜ぶには元気でないとダメだということはみんな知っています。病気だと喜べないのです。顔に笑顔が蘇ってきて、血の気がさしてくればすぐに回復します。逆に起こりっぼくなっているのは病気からの警告です。

喜べるというのは喜怒哀楽の問題ではなく、心理学的な問題でもなく、その源泉を辿ると「生きる」という根源的なところに帰ってゆくのです。ポジティブというのはそういう中で生まれ生きているものです。

ボジティブが失われた時代は、喜びも失われています。顔に活気がなくなっています。喜びが少なくなるとそれに並行して真面目くさくなります。真面目くささが増すと批判的になりますから、あの悲しい悪循環の始まりです。

レベルアップを心がけなければならないようです。

 

 

 

 

 

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