新しい出発 その三
私たちは一生懸命生きているようで、案外ぼんやり生きているような気がします。そうでないと長い一生は相当しんどいものになってしまうでしょう。
そうした中で自分の人生に手応えを感じることがあります。「いま生きている」という緊迫した感触ですが、これはきっと多くの人が一度や二度は経験していることだと思いますが、有難いことに現実には滅多に起こらないものなのです。しかし珍しいとは言え、深いところで私たちの人生を支えているものに違いないと私は考えるのです。
その感触は滅多にないこともあって、特殊な言葉で言い表されています。自我とか存在という、使い慣れていない言葉で表現されるものです。人生を難しく考える人たちが好んで使う言葉ですが、彼らの専売特許というものではなく、全ての人間に等しく平等に与えられているものです。
さて「いま生きている」という感触ですが、凝縮した自分と言えるように思います。その感触のもとで自分はとても小さなものに見えるものです。例えば苦しみのどん底にいる時、私たちは自分がどんどん小さくなってゆきます。自己評価ができないほど打ちのめされることがあります。社会から見放され周囲から圧縮されそうになります。
悩んだり苦しんだりというのは人生につきものですが、それは私たちが自分を小さく感じるために起こるのです。その時、すごいことが起こっていて、ただ生きていることが「存在」という名前に変化するのです。存在は哲学者が創作した観念ではなく、人生の中で自分が小さく感じられたときに誰もが持つ実感です。
日々の生活に追われている私たちは、時間に追われ、用を足し、辻褄を合わせているということで終始していて、自分自身を存在と感じる余裕などありません。何か特殊な事件が起きて、周囲から打ちのめされ、後ろ指を刺され、自分自身を持ち堪えられなくなり、生きることを放棄する寸前まで追い込まれます。その時、生きているが存在に変わるのです。そのときになってようやく存在は私たちの意識の中に登場するのです。もしかすると、私たちは自分を存在と感じる経験をして初めて一人前と言えるのかもしれません。
人間には自分自身を「存在」と感じることができる瞬間が与えられているのです。自我に目覚めるという言い方も同じです。自我のことを言うときに、自我を持っていますと私たちは言ってしまいますが、これは間違っています。私たちは生きることに行き詰まったときに自我になれると言ったほうが少しは事実に近いと思います。つまり自我というのは存在と同じで、ある状況の中で自覚されるものだからです。自我を持っているのではなく、自我になるのです。
エゴは自我と混同されて使われますが、全く違うものです。エゴというのは自分をどんどん膨らませ、大きく感じるように仕掛けてきます。エゴは基本的には自己主張しているので、いつも周囲とぶつかります。戦争というのはエゴの産物です。またディスカッションも基本は自己主張なので、言葉による小さな戦争ということになります。自我に目覚めると、私たちは主張も、衝突もない世界の住人になります。
繰り返しますが、自我にしろ存在は死を内在しているものです。内在でいいのかわかりませんが、とにかく死の目前で現れるものだということです。突然死を持ち出しますが、自我イコール死、存在イコール死ということではなく、自分自身を全面的に否定したらそこには死の選択しか残っていないのですが、私たちは自我や存在に至るために、そのすぐ寸前まで持ってゆかれます。そこで一線を超えたら死の世界にゆくので、ここでは触れないことにしますが、そこに現れる自我、存在という実態が、私たちを再び生にもすのです。私たちが自我とか存在と呼んでいるものには世に引き戻す力があります。そこから再び人生に帰って来る時私たちは自我存在となり人間存在となるのです。