ジャクリーヌ・デュ・プレというチェロ奏者
私が尊敬してやまないチェロ奏者、エマヌエル・フォイアマンの偉大さについてはすでに何度か取り上げていますから、今日はジャクリーヌ・デュ・プレ(1945-87)という若くして亡くなられたイギリスの女性チェロ奏者について語ってみたいと思います。多発性硬化症という病気に苦しみ42歳で惜しまれながら亡くなります。奇しくもフォイアマンと同じ寿命を与えられた命でした。
デュ・プレの演奏を聞くと、すぐにそれが彼女の演奏だとわかります。耳で聞いてわかると言うよりも体が震えるからです。そしてしばらくすると目頭が熱くなります。彼女が紡ぎ出す音は、まるで「夕鶴」の鶴が自らの羽根で糸を紡いだようだからです。デュ・プレの息遣いが、声が聞こえてくるのです。
技術的にも突出した演奏家でした。確かに技術面で優れているわけですが、技術面で言えば同じくらいの力量の持ち主は何人かいます。その人たちはいずれもが名演奏家、巨匠として高く評価されている人たちです。しかし私にとってデュ・プレの音は名演奏家の範囲を超えて特別です。音符が音になっているところまでは同じですが、その先で何かが起こっています。この何かが他の演奏家と一線を画すのです。音と対話していると思っています。ただ対話の時間はほとんどゼロに近い時間です。そこがコメントや解釈と違うとこめです。そのゼロに近い時間を知っているかどうかと言うことだと思います。天才というのはそのゼロ時間を作り出せる人だと思います。
どうしたらフォイアマンやデュ・プレのような演奏が学べるのでしょう。ゼロの時間空間を作れるのかと言うことです。音楽大学にゆけば学べるのなら毎年何百人と言う奇跡の演奏家たちが生まれていることになりますが、そうではないようです。どこでどのようにしたら学べるのでしょうか。
練習や努力の賜物ではないのです。地上的、物理的な環境の中だけでは無理だということです。思い切って「精神的」という言い方をします。ここでは心理的という意味は全く含まれていません。きっぱりと「精神的な世界」あるいは「霊的な世界」です。
フォイアマンの事を言いますと、彼は練習が嫌いでした。練習すると下手になるという言い方もしています。普通では言えないです。彼曰く、演奏が硬くなってしまうのだそうです。私の絵描きの友人が同じように、「絵は描きすぎると硬くなる」とよく言います。ギターのセゴビアもお弟子さんに「技術に振り回されて弾きすぎるな」と戒めていたそうです。これらのことが言おうとしているのは物質空間での努力に振り回されるなと言うことです。それを超えたものがある事を留意しろと言うことです。
楽器演奏に練習で築き上げた骨組みは必要です。ここがしっかりしていないと骨なしの演奏になります。ところが演奏はそこで終わるわけではないのです。演奏が上手というのはまだ物質的なレベルなのです。ではその先はゼロの時間空間です。練習では得られない上達があるのです。練習からでは獲得できない上達です。練習で積み重ねてきたものがゼロになる瞬間です。
話が少しずれますが、陸上競技の百メートルと走り幅跳びで最も多くメダルをとったアメリカのカール・ルイス選手は、大事な試合の前になると練習を早々引き上げて、障害者たちの施設とか、老人ホームに慰問に行ったりしたそうです。そこで無邪気な人たちと出会うことで、頭に凝り固まった邪念を取り払い体をほくしていたと言われています。
演奏も邪念が邪魔をします。邪念は大抵欲です。以前よりもっと上手にと言うような欲です。こうしてみると、スポーツも楽器の演奏と似ているところがあります。ただスポーツは勝ち負けにこだわるところが音楽とちがっていると主張する人がいるかもしれませんが、実は音楽の世界にもコンクールという落とし穴があります。勝ち負け勝負の世界です。とすると、音楽とスポーツ、もしかするとそんなに変わらないことになっているのかも知れません。
上達のための方法はもう、指の練習の中などにはなく、頭を空っぽにすることです。そして、体をほぐしておくことです。もちろんそれだけではまだ精神的ではありませんが、そうなって初めて得られるものがあります。それが霊的で精神的なのです。直感です。インスピレーションです。これは向こうからやってくるものです。
考えたことだけをやっていたら四角四面の硬い演奏になってしまいます。音楽に技術、練習の成果なんか聞きたいわけではなく、インスピレーションに満ちた、想像を絶するワクワクするものが聞きたいのです。それは上手いとか下手とかとは違うところにある宝です。
カール・ルイスが障害を持った人たちや老人たちの無垢を必要としたというのが最近よくわかるようになりました。私たちは、時々、無垢に接したり、無垢に囲まれたりして、無垢に満たされたがっているんです。私が音楽に聞きたがっているのも実はこの無垢だったのです。この無垢が音になる時演奏者の存在が鳴り始めます。息遣いが聞こえてきます。これこそが演奏の醍醐味です。音楽を通して一人の人間に出会えたと言う実感があります。この手応えは人生の糧です。
フォイアマンやデュ・プレの音楽が無性に聴きたくなります。この無垢を感じたいからなのかもしれません。
彼らの存在に寄り添っていたいのです。存在は温もりです。人間の存在という秘密に出会えるから音楽を聞くのです。