言葉の限界

2021年1月7日

言葉で言えることには限界がある、とは薄々感じています。ここからは言葉では言えない領域というのは感覚的に捉えられるものなのでしょうか。だったら言葉以外の何で伝えることができるというのでしょう。私は天邪鬼なので、やっぱり言葉なのではないかと思ってしまうのですが。

 

先ずここで言っている言葉が散文だということをはっきりさせておきたいのです。散文は説明するときの言葉です。言い方を変えれば説明では伝えられないものがあるということになるのかもしれないのです。だったら同じ言葉でも詩に使う詩文はどうなのだろう。詩文は説明は散文にかなわないですが、説明でない分野では詩文のインパクトが散文に勝ることだってあるのです。

古代インドの数学や天文学は韻文で書かれなければならなかったということです。つまり詩として歌わなければ学問としても価値を認めてもらえなかったのです。古代インドの天文学の権威の方らから伺った話です。

また、ある宗教の開祖と言ってもいいほどの人が、自ら体験した霊界について八十八巻の大著で表しました。そのときの表現方法がとりわけ興味深く、八十巻までは散文で綴られたのですが、最後の八巻で霊界の奥義を述べる段になると、散文ではなく、和歌に変わったのです。説明ではない、和歌で歌いながら伝えたのです。いや歌でしか伝えられなかったのです。

名古屋でお世話になった保育園の園長先生は二万種に及ぶ歌を読んで亡くなられました。生前保育園の保育士さんたちに、「お知らせ帳は歌で綴りなさい」と言って、歌を奨励していました。歌にするとなると、くだらないことではなく、一番伝えたいことが言葉になるからだというのがその先生持論でした。しかしこれは実際に保育にあたる先生たちにとってはなかなかハードルの高いもので、誰もがすらすらと和歌が読める才能を持ち合わせてはいません。ただこういうことは保育士の養成の時にカリキュラムとして導入されたらすごいことだと思ったことはあります。保育士が歌を詠むことで、日常の文章を綴るようにでもなれば、教育に一大変革が起こるかもしれません。

 

もう一度言いますが、「言葉では言えないことがある」というのはなんなのでしょう。どういう感覚なのでしょうか。ここでもう一度考えてみてもやはり説明には限界があると同義のようです。

私たちの日常生活で一つだけここに紹介したい「言葉では言えないこと」の例があります。愛の告白です。散文的に「あなたが好きです。なぜならばあなたの美しさは比類がなく、・・・」と滔々と説明をしたとします。この告白は失敗に終わるでしょう。少なくとも日本では「そんな説明やめてください」と嫌われてしまうでしょう。もちろん和歌なり、俳句なりで伝えたとしても「気障、気取っている」と思われ不成功間違いなしです。ではどうしたらいいのでしょうか。そっと手に触れるとか、目と目を見つめ合うとか、極めて簡単な行為が一番効果がありそうです。

日本の詩の文化の中で一番短い俳句が今世界中で注目されています。今と言うよりも、もう二、三十年前から世界の俳句人口が急増しているのです。

短いと言うこと、その割には三つのカテゴリーが独立していて、最終的に極々少ない言葉で、計り知れない宇宙を表現できると言う俳句の力が、心を病んでいる人たちで、言葉にしたくないものを心に抱えている人たちにとって、絶大な力をはっきしているようなのです。ただ厳密に言えば俳句的というべきもの、あるいは俳句よりは川柳というにふさわしいものと、俳句の人からは厳しい指摘があるのですが、少ない言葉数というのが最大のメリットになっています。そもそも心が荒んでしまっていて、何も言いたくない人たちなのですから。

言葉で言えないことも頑張ればまだまだ言葉で言えそうな気がしてきました。

最後に、珍しい骨董、アンチークのフランス人形とかオルゴールを扱うお店のオーナーが、社員の研修の時におっしゃられたことを紹介します。お客様はどちらかと言えば珍しいタイプの人たちです。ですからマニアルの対応なとば以ての外です。オーナーが社員の方たちにおっしゃったのは「いい詩をたくさん読んでください。わかるわからないではなく、詩人の言葉のセンスの中で自分を磨いてください。それがお客様との対応の時に滲み出てくるのです」

コメントをどうぞ