職人と芸術家の美
友人たちと音楽の話をするのは楽しいひと時です。そんな時によく感じるのは、音楽の中に入ってしまうような経験を持つ人が意外と多いことです。音楽を職業にしている人に限らず、音楽好きはとても極端な人が多いのでしょうか。あるいは純粋すぎて音楽に溶け込んでしまうのでしょうか。とりあえずは羨ましい限りだと言っておきます。
音楽だけでなく絵を描いている人たちも色とか形とかを絵を鑑賞している人とは別の次元で体験しているのだと思います。そしてその体験も溶け込んでしまうようなものなのかもしれません。
芸術的な才能に恵まれた人特有の美と対する感性なのでしょう。
もちろん創作という仕事を持つ場合、ただ溶け込んでしまっただけでは成立しないでしょうから、なんらかの距離を保たなければならないのでしょうが、基本的にはやはり同化してしまうというものがまず無いと芸術の世界は始まらないもののようです。
若い頃よく職人と芸術家の違いについても語り合ったことがあります。当時は職人より芸術家の仕事の方を上だと考えていました。最近はどちらにも共通したものがあって、そこで優劣をつけても仕方がないように感じています。共通しているのはもちろん溶け込んでしまうような熱い思いと冷静な直感力、と作品に仕上げる忍耐力、そしてそこから生まれる美の世界です。
ハイドンのところでゲーテのハイドン感を引用しました。ゲーテが苦悩の表現は本質的なものではないと言い切っていたのが印象的で皆さんとシェアーしたいと思ったのです。ゲーテ自身が「若きウェルテルの悩み」を書き、それで一躍名を世界に知らしめた作家なので、その文章の意外性に驚いたのです。ゲーテは自分は次の世代からは理解されないとも言っています。つまり十九世紀の苦悩が中心テーマになる芸術の風潮の中で自分は理解されないと考えていたのです。その後に来る別の時代意識のもとでだんだんと評価されるようになると感じていたのです。
職人が物を作っている時、創作の渦の中にいる時、苦悩などはチラつくことがないでしょう。苦悩の表現などというのは甘えではないかと考えてはいけないのでしょうか。知的な階層の人たちの解釈は、職人たちはインテリではなく、苦悩に満ちた人生の克服などという人生解釈とは無縁だという見方です。露骨には言いませんが、職人たちは頭が悪いと言っているようなものです。確かに職人たちは小さい時から親父の仕事場に出入りして、技術的なものを知らないうちに身につけていたりする人も多くいます。一般的には職人たちの学歴は低かったようです。ただ学歴が美を生むのなら、今日の高学歴社会は芸術的美に溢れていなければならなのですが、どうもそうではないような気がしてなりません。
ドイツがまだ職人気質を備えていた頃は、一人前の職人になるには高卒、しかもそこで大学入学資格、日本でいう全国一斉テストのようなものですが、を取ってからでは遅すぎるとよく言われたものでした。早ければ早いほどよく、遅くとも義務教育が終わった時点で、中卒ということです、職人の道に入らなければ体が仕事を覚えてはくれないと言われていたのです。しかし最近は職人の修行の期間が中卒は三年かかるのに、高卒で、しかも大学入学資格を持っていると理解力に優れているわけだから二年でいいというところもあるほど、知的であることが職人世界でも優先する社会に変わりました。
もちろん今でも中卒で職人の道に入る人がいないでもないですが、義務教育を終えただけでは修行の道に入ることすらできないような学歴社会の中で、義務教育しか受けられない子どもたちが社会に受け入れられにくくなっているのが現状です。これは別の問題も含まれるのでここではこれ以上深入りしません。
芸大を出て芸術活動をしているかたがこんな言葉を言われたことがあります。「俺たちが作るのはせいぜい芸樹作品だよ。でも子どもの頃から体で仕事を覚えた職人さんたちはな、本物の世界を知っているんだ。彼らはな、真実を作り出すことができるんだよ」。
この言葉を聞いた時、苦悩の表現を可能にする芸術作品こそが最高のものだと思っていた当時の私はその意味が半信半疑でした。その後、職人さんたちといろいろな出会いがあり、職人の世界を垣間見るにつけ、その方の言葉がだんだんと重さを増してきました。職人さんたちの日常から出発して日常を超えたところに見つけた美と、芸術家という知的人間が非日常の空間の中から見つけ出してくる美。今は職人と芸術家の間の境界線は取り払われています。
ゲーテの言葉には芸術のこれからの道を考える上でとても勇気づけられます。人間の本質、それは美である、眩しいくらいの言葉です。