ベートーヴェンからマーラーへ
去年はベートーヴェンの生誕250年ということで、たくさんベトーヴェンにまつわる音楽祭が予定されていたにもかかわらずコロナ騒ぎで全て中止となってしまいました。
ベートーヴェンの音楽は、若い頃、ほんの一時期聞いた覚えがあります。七番の交響曲はレコードを持っていたくらいですから聞いたようですが、他には特に感動したものはなく、みんながベートーヴェンを評価し、持ち上げているのを冷ややかに見ていたものです。
ベートーヴェンの音楽は、私にはすでに終わった音楽なのです。過去の方を向いて、過去の思考方法で考えていて、未来性があるかと言えばなく、聞かなくてもいいやと聞かないだけです。特にシラーの詩を使った九番の交響曲には、平和だとか、友愛だとかいう古臭い言葉がついて回っているので、近づくのを避けています。今日では政治的プロパガンダのための言葉なのではないかと思っています。
ベートーヴェンによってヨーロッパ音楽は終止符を打たれたと思っています。ベートーヴェン的なものと言ってもいいかもしれません。とは言え音楽そのものはその後も次へと歩き始めています。そこで一役買っているのがシューベルトでしょう。シューベルトの感性無くしてベートーヴェンで幕を閉じた後、音楽を次に繋げることはできなかったような気がします。そしてそのシューベルトを引き継いだのはグスタフ・マーラーです。マーラー自身はブルックナーからたくさん学んだようなことを言っていますが、作曲の技術的な面ではそういうところも感じますが、音楽としてはブルックナーとマーラーは全く別方向を向いています。ブルックナーはベートーヴェンを穏やかにした優等生なところがあり、未来を向いているというより、紳士的に古き良きヨーロッパの過去を見つめているのではないのでしょうか。マーラーは未来という予測不明なところに身を置いて、そこを交錯する音楽を書き留めていますすら、優等生には成れない複雑な存在だと思います。マーラーはシューベルトの音楽が持つ独特な「無重力的なところ」に憧れていたのではないかと思っています。未来的ビジョンは無重力の中でしか動けないものです。二人の間に作曲技法的には特に似ているというものではないのですが、音楽は同じ方を、つまり未来を向いて、未来につなげています。
ところがマーラーの後が続かないのです。クラシック音楽はウィーンで、マーラーで終わってしまったのかもしれないなどと言えば必ず反論があるはずです。現代音楽と呼ばれるものがあるからです。しかし現代音楽は響きの寄せ集めのようなもので、それらを聞いても私は音楽体験を得ないのです。響きによるコラージュ、響きによる絵画と言ったらいいように思っています。意外性という楽しみ方をすればいいものでしょう。現代音楽とは別に映画音楽が今日の音楽を賑わせています。映画と音楽が共同作業をすることで、音楽はかろうじて生き延びたのかもしれません。つまり映画音楽という新しいジャンルが生まれ、現代の音楽家たちは映画との共同作業に新しい道を見出したと言えるのかもしれません。
音楽が映像のために、映像を盛り立てるために作られるというのは、ストーリーの伴奏と見ていいのでしょうか。筋書きの状況を音楽で伴奏していると言えるのでしょうか。シューベルトの歌曲の伴奏を聴いていると、伴奏そのものが音楽として独立しているものだという印象を持ちますが、映画音楽は別物のようです。映画音楽だけのコンサートで音楽を聴いていても、音楽的には満たされないものです。映画で見たシーンを思い出す楽しみはあるのかもしれませんが。
現代は案外「音楽体験が得られるにくい時代」と言えるのかもしれません。周囲を見渡せば音楽に溢れているように見えますが、実はソッポを向かれているのかもしれません。それらの音楽は何かのために使われている音楽のような気がしてならないのです。