真実

2021年1月27日

ドイツに四十年以上住んで感じるのはこの国は根っから学問が好きな国なんだと言うことです。

もちろん二通りの意味で言っています。一つは情熱的に学問ができると言う意味で、もう一つはなんでも学問的に考えられてしまうと言うことです。

食事をするときにも、栄養学で攻めてきます。健康に良い、有害ではないと言うわけで、味覚は、蓼食う虫も好き好きですから学問の対象外にはずされ無関心と言っても良いくらいなのです。主観的な感想なんかではダメで、数字になるほど具体的でないと説明したことにはならないのです。日本人からは考えられないくらい合理的で、学問的食生活です。

音楽も芸術的と学問的が競り合っています。どちらかといえぱ勿論学問的で、作品の考証などは得意中の得意です。例えば、その音楽が作られた当時の音を再現すると言うことに夢中になります。その挙句音楽の楽しみを忘れてしまうこともあります。以前のブログで書きましたが、バッハ、ヘンデル、モーツァルトやハイドンといったクラシックの作品を、古い楽器で、当時の演奏スタイルで演奏することがここ五十年くらいはやっています。楽器の構え方、使用する弦、弓、弓の持ち方等々当時そのままを再現することに夢中になっています。それが正しい音楽ということにすり替えられてしまうほどです。私にはなんとなく本末転倒しているように見えてならないのです。というのは、音楽は正しいと言うことで評価されるものではなく、心に響くかどうかだと考えるからです。食事が栄養学で説明されてしまうように、音楽も正しく再現することが目的になってしまい、芸術であることを置き去りにしているのかもしれません。

四十年の歳月の中で当初勘違いしていたことがだんだんと明らかになってきました。初めは真実というのは学問が一番近くにあるものかと思っていたのですがそうではないということでした。

 

さて、今日はこの真実という言葉について考えてみたいと思っています。私はこの言葉に特別な関心があります。と同時にとても敬意を払っています。そんな中で長いこと疑問に思っていることが一つあります。それは真実そのものを考えることはできるのかということです。どういうことかというと、真実と言う時でも、真実そのものが直に言われているのではなく、周りに付き纏っているものからぼんやりと浮き彫りになっているだけのような気がするのです。

真実という言葉は色々に使われます。学問的な真実もあれば、芸術的な真実もあれば、道徳的な真実もあります。すべてが真実に通じているのです。真実という頂上に行く道はその他にいくつもあります。しかし真実というものは独自の世界を持っているのでしょうか。これが真実だというものはあるのかどうかということです。

みんながそう言っているから真実だということはありません。真実は多数決で決められないのです。一人だけがあることを主張して、それ以外はみんな別の意見だとしても、たとえそれが99パーセントだとしても、だからと言ってみんなの意見が真実だということにはならないのです。たった一人が真実を予感していたということだって有り得るのです。

つまり真実は量とは関係のないものだということです。真実というのは非物質的で実に手応えのないものです。触ることができまないので、証明することができません。でも私は真実はあると信じています。そんなものは無いと言われても、あることを証明できなくてもあると信じています。いかなる場合でも有りますと言います。

他の人には無いかもしれないのですが、私にはあるということ、それで十分なのです。先ほども言いましたが、みんなで真実を共有することなんかどうでも良いことなのです。真実はそういう意味で孤独なもので主観的なものです。学問の真実とか、芸術の真実、道徳の真実というように客観的な領域のものであるかのように見えますが、真実は主観からしか生まれないのです。

手応えがないのは外にではなく主観の中だからです。触ることができないのは自分の中にあるからです。説明ができないのも、自分に説明する必要がないからです。

客観というのは物質的で、証明するのに都合の良いものですが、真実の領域に入り込むことはできないものです。私たちはとかく客観的なということ、数字で示されるものを信じ、高く評価しがちですが、そこに真実はないことを知るべきだと思います。真実は私たちの心の中にだけあるものだからです。勿論私たちはお互いの駆け引きを度外視できる仲ならば、真実を共有することができます。真実ってまるで真空状態のようです。

 

 

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