「理想の」とは
理想について考えて見たいと思います。とは言ってものっけから理想を相手にするのは難しそうなので、「理想の」「理想的な」という形容詞から始めたいと思います。
「理想の何々」はよく耳にします。理想の男性、理想の女性、理想の旦那さん、理想の奥さん、理想の先生、理想の家庭、理想の家、理想の学校と言ったものです。ところがこんな人はどこにもいない人のことですし、理想の家はどこにもない家です。理想の学校も同じことでどこにもない学校です。理想の旦那さんを待っていたら一生結婚はできません。
「理想の」と言うのは私たちの思考回路の中に根強くある癖ですから、つい口から出てしまいます。未来に今実現していないものを託すわけですが、その未来は今の延長の未来ですから純粋な未来とは言えない未来です。そして主観的な未来です。未来への希望と言えば聞こえはいいですが、理想の国家とか理想郷、ユートピアなんて、結局は各人が主観的に想定した未来の公倍数に過ぎないのです。主観ですから客観的には、将来にだって存在し得ないものということになります。
「理想の」は別の観点から見ると「正しい」という意味にも取れます。正しいの方も実は主観的なものなのですが、正しいには他と比較した分ただ主観的とは言えないところがありますが、「理想の」は全く主観の世界のものです。しかも思い込みが強いので、理想に走る人たちとは付き合いにくいものです。「理想の」に目くじらを立てるのではなく、のんびりと目標程度のものにすれば少し現実味が増すので、「理想の」が付き合いやすくなります。
「理想の」というので遊べると頭の体操にはもってこいです。ちなみに私の理想の女性を告白すると、「嶺麗しく情けあり、つまり容姿端麗にして頭脳明晰、しかも心優しく暖かい人」です。こんないないだろうとは思うのですが、我こそはと思うかたどうぞ名乗り出てください。
もし仮にいたとしても、手の届かない高嶺の花でしょうから、いてもらっては困るというのが本音です。なので、いないのではないかということで却って心はずませることができるような気がします。
恋は盲目です。人間とは便利にできているものです。ということは。好きになった人が理想の女性ということにしてしまうのです。さらに自分の理想をその人に無理やり当てはめて仕舞えばいいわけです。これは私だけのことではなく、皆さんだって似たり寄ったりなのではないのでしょうか。