音楽は言葉を大切にしていない
歌は民族を問わず世界中にあります。そんなの当たり前だと思われてしまいますが、なんで当たり前なのかととうと、人間は歌う存在だという答えが返ってきそうです。
そのことを確認したいと思います。
だからと言って、歌に興味のない人に、歌いなさいと強制するつもりはありません。歌に興味がなければこのブログは飛ばしてください。
どの民族も自分のメロディーとリズムを持っています。もともと言葉は歌われたものですら、独自の歌があると言うのは独自の言葉を話すと言うことと関係します。言葉から音楽が独立していき、器楽曲という抽象的な音楽が出来上がりました。ヨーロッパの近代以降器楽曲は盛んで、今日では音楽の比重は歌よりも器楽曲に傾いていて、オーケストラ、ピアノ、ヴァイオリン、弦楽四重奏などが中心だと行っても過言ではありません。
シュタイナーが言葉と音楽の関わりについて気になることを言っているのです。音楽は言葉を蹂躙した、いやもっとどぎつく強姦したと言うのです。聞きづてならない発言です。
音楽が言葉から独立したと言うことは、言葉を全く省みなくなったと言うことで、音楽独自のメロディーやリズムを謳歌していると言うことです。もうことはからの影響はどこにも見られなくなっているのです。
現代の歌はその言葉離れしたメロディーやリズムを今度は言葉の方に被せているのです。音楽が好きなようメロデーやリズムを言葉につけて歌わせるのです。これを蹂躙、強姦と表現したのです。
ただ私たちはそのように作られた歌を学校などでは習うので、それが自然に聞こえるように慣らされてしまいましたから、シュタイナーがそう言ったからと言って、「そうなんですか」と簡単に引き下がれず、かえって首を傾げてしまいます。
音楽は無力だと書いたばかりなのに、音楽が言葉を蹂躙、強姦しているなんてよく言えると思われても仕方がありません。しかし私の言い分は、音楽は社会的な効力としては無力ですが、音楽にも犯している罪があると言うのは矛盾しないと思います。音楽が自分で綺麗だと思ったメロディーを言葉につけて歌わせるのは、音楽の奢りだと考えることもできるのです。言葉と音楽の間の新たな調和が求められているのです。
これは将来の音楽の課題の一つです。知性的な時代はさまざまな作曲技法を発明しました。ソナタ形式とか十二音階とか言った技法です。ところがこれからは言葉と音楽の新たな調和を探すことで、新しい音楽の波が生まれると言えると思います。言葉に内在しているメロディーをリズムを、今度は音楽が発見する時代が来るのです。