俳句とフレンチ

2021年3月11日

日本人がフランスで料理の修行をして日本でフランスレストランを開くというのはよく聞く話です。美味しい高級フレンチは舌に肥えた日本人の間ですぐに人気者になります。

ところがそうしたフレンチにフランス人がどう反応するのかというと、本物のフランス料理ではないと言うクレームがつきます。日本人が作ったものだからだそうです。味噌、醤油、鰹節、昆布で育った舌ではフランス料理は作れないとはっきり言います。

言われてみればそうかもしれないと思うし、私たちには日本人の作ったフレンチの方が馴染みやすいことがあるのは、そう言うところから来るのかと納得する一方で、いつも疑問に思うのは、今の俳句ブームにまつわるエピソードです。世界中で俳句が作られています。もちろん日本語ではなく、それぞれの言葉で作られます。私も時々読まされますが、俳句とは別物だと思って読んでいます。

 

日本語で作られた俳句も作者によってずいぶん違う作風がありますから、俳句といって百人百様で、これが典型的な俳句というのはないですが、俳句の匂いといったらいいのか、俳句を感じされるものというのはあるように思っています。季語があり、季節感が迫ってくるもの、花が香るものなど、言葉の遊びが繰り広げる世界の楽しみ方は色々です。

外国語の場合は17の音という制約を守れば全て俳句です。それさえ守っていれば俳句なので、作者は俳句と川柳の違いを知らないで作っていると思います。季語の制約がないので基本的には川柳です。しかし彼らは川柳とは言わずに通りのいい俳句で押し通します。

私に読ませて、どうかと聴いてこられると、一番答えに困ります。読んだ感想はただ短い詩です。ポール・ツェランの短い詩の方が完成度は高いといつも思うのですが、「これは俳句ではないですよ」とはなかなか言いづらく、言葉を濁しています。

ある時、自信満々で俳句を持ってこられて、日本人以上の俳句だと言わんばかりだったので、「俳句の足元にも及びませんね」とはっきり言ったら、「日本人の自惚れには呆れたものだ。日本語でしか俳句ができないと買い被っているのが滑稽だと」喧嘩になりました。

日本人が作るフレンチはフレンチではないと苔下すのに、日本人にしか俳句ができないなんで自惚だと言える神経はどこから来るのでしょうか。

思うに、西洋が自慢する自我とはこの程度のものだったようです。

根本のところで何かが狂っているようなので、私が何か言ったところですぐに変わることを期待することはできないようです。

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