役割と存在、意識のこと
意識という厄介な世界をご丁寧に、顕在意識と潜在意識とに分けています。他に意識と無意識という分け方もあります。私は一つの意識のところでつまづいているので、二つに分けられても戸惑うばかりです。
ただ最近は、私たちが生きてゆくときに、社会的な役割の部分と、役割とは関係のないその人の裸の部分、存在とに分けられるように、意識というのも、顕在意識と潜在意識とに分けるのも正当性があるように思えてきたのです。役割的な顕在意識と、存在の潜在意識という具合にです。
このように分けると少し近づけたような気がします。
私たちは人と出会った時に自分の仕事や、会社の名前や、その会社でのボジションを相手に伝えます。つまり社会での役割ということです。
役割のアピールは簡単ですが、存在の方は簡単ではなく、「私という人間は・・・」、と言い始めても後が続きません。自分でも自分のことがわかっていないのです。まさに潜在意識のような物です。私たちの意識の大半が潜在意識だと言われています。90パーセントという人もいます。
ということは私たちは社会での役割を人前に喜んで持ち出しますが、それってその人の極々わずかの部分を占めているだけで、大半は存在という部分に埋もれているのです。だから存在を人前にアピールすることはできないということなのです。
自分を研究した人は存在の部分をいうことを言葉にできるのではないかと思われるかもしれませんが、存在は研究してわかるような代物ではないのです。思い込むのが精一杯です。自分のこだわりとかクセとかがせいぜい言葉になるだけです。それ以上になると言葉にすればするほど虚しくなるものなのです。
ここで記憶はどんな働きをしているのでしょうか。記憶で私たちは自分を支えられているのです。子どもの頃からの記憶の総体が私たちだと言えるのかもしれません。ところが、記憶そのものが私たちだということにすると混沌とした総体なので混乱してしまいます。
もう少し詳しくいうとこんな感じです。全ての記憶がブールされている記憶体に私たちの鏡が降りてゆき、混沌とした記憶を整理しながら鏡に写していると想像してみてください。その鏡に写ったものが私たちが自分だと言っていることなのです。その鏡が自我と言われているものかもしれません。しかしこの鏡に写せる記憶も顕在意識です。ですから潜在意識はどこにあるのかすらわかっていないのです。自己暗示とか自己催眠という方法で潜在意識は垣間見ることができると言われています。他の人に催眠術をかけられると出てくるのが潜在意識と言われていますが、私は催眠術の経験がないのでここでは何も言えません。
ただ潜在意識のことで経験したことがあるので、最後にそのことをお話ししてこのブログを終わりたいと思います。
何年もにわたって毎年私の講演会に顔を出していた方が、「今年が最後です」と言われ、次の年、そしてその次の年もお目にかかれませんでした。ところが三年目に再び講演会に顔を出してくださったのです。講演会の後お食事をしている時、彼女は二年の間にあったことを話してくださいました。「潜在意識の会」に行っていたのだそうです。「母との関係が子どもの頃から気になっていたので、それが整理できるかと期待して参加した」とおっしゃつていました。「ところが母をイメージして、馬鹿野郎、と罵れと言われるのです。私がうまくできないと、怒られながら何度も繰り返されました。でも私、疲れてしまったのです」ということでした。結局、潜在意識がなんなのかわからないままその会を辞めてしまったそうです。私がその方を二年ぶりに見て気になったのは、そのかたの雰囲気が暗く思っ苦しいものに変わっていたことです。顔の血色もなく、ドス黒くなっていたと言いたくなるほどでした。
結局その女性は何をしていたのでしょう。潜在意識にたどり着けたのでしょうか。もしたどり着いていたのだとしたら、想像するに、少なくとも何かが開放されたはずです。あのドス黒い顔色は心が傷ついただけのような気がしてなりませんでした。馬鹿野郎という言葉によって解決できるものはないはずです。ましてや潜在意識は私たちの存在を支えている高貴な力のはずだからです。