五感とは四感足すもう一つの感覚
日本では五感という言い方がポピュラーです。
この五という数は五行の考え方からきています。これは古代中国ですでに活用されていた世界観で、世界を五つに分けて捉えるため、人間の感覚も五つに分けて捉えます。感覚器官が五つしかないということではありません。視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚が五感です。
触覚という感覚は他の、味覚、嗅覚、視覚、聴覚とは違うと考える人たちがいます。そのため基本は今あげた四感覚で、そこに触覚が加わるのですが、触覚は独立した感覚というより他の四つをまとめているものと考えているようです。。
シュタイナーの十二感覚の十二も、西洋占星術で使われる十二と同じものが下敷きになっています。世界観という見方です。こちらも五感の時と同じで十二の感覚器官があるというのが出発点ではなく、感覚能力を十二に分けて説明しています。世界の表れの姿を十二に分ける世界観です。
ところがシュタイナーが初めて感覚に触れた時は十感覚でした。そこではやはり触覚が含まれていなかったのです。自我感覚も含まれていませんでした。触覚は五感の時にも、十二感覚の時にも外される運命にあるようです。シュタイナーはその後、触覚と自我感覚を入れて十二感覚とするのですが、この二つの感覚は他の感覚とは一味違うもののような気がしています。
その辺を探ってみましょう。
視覚は網膜に光が触れます。聴覚は鼓膜に音が触れます。嗅覚は匂いが鼻の粘膜に触れます。味覚は味が舌に触れます。という具合で、感覚とは基本的には触覚を含んでいると言ってもいいのです。あるいは触覚の変形したものなのかもしれません。
特別な例として、視覚がない場合、つまり目の見えない人にとって触覚は極めて重要ですが、それ以外の人の場合はよくわからない、普段はほとんど意識しない感覚なのです。
触覚を感覚器官と見做すとしたら、何が触れているのでしょう。周囲の何かです。人間を取り囲んでいる周囲の「もの」全てです。ところが視覚が椅子だとかテーブルだとかを見て判断してしまう時には触覚の働きは視覚の後ろに消えてしまい、触覚的感覚はありません。見えない時、目が見える人でも真っ暗闇の洞窟の中では、手探りで触れます。まずは触れてそれらの存在に気付きます。もう行き止まりだとかです。その時点では具体的な形はまだわかりませんから、触覚はものに直接触れて、存在と対峙しているということです。
そうすると触覚というより、ものの存在を感覚するので、存在感覚と呼んだ方がふさわしい気がしてきます。何かの存在を感じ取るときは、そのものに触れているのです。触れるというのは人間が存在しているということの大基本だということです。
十二感覚で始めに触覚と共に外されていた自我感覚という奇妙な名前の感覚も、相手の自我存在を感じる感覚ですから、やはり存在を伝えるということでは触覚と非常に似ています。
私たちは、感覚を持ち、それによって周囲の世界から色々な刺激を受け取り、それによって世界を理解している訳ですから、感覚によって人間は自分の存在を確信していると言えそうです。
感じるというのはフィーリングですが、感覚するというのはもっと切羽詰まった、存在していることの手応えであり、存在の確信だと言えそうです。
感覚を育てるというのはひいては自分が存在していることの自信につながるものなのかもしれません。目標に向かって努力して自分に自信をつけるという体育会系の自信とは別の、感覚から得る自信というのがあるのです。
聴覚に問題のあるお子さんのお世話をしていた時、そのお子さんをおんぶすると、私の背中でまるでマッチ棒のようにまっすぐに突っ張っているのです。私の背中の形にぐにゃーと凭れるのではなく、そのお子さんの体は硬直しているのです。
聴覚だけではなく、感覚というのは基本的にはこのように体をほぐしているものと言えるのかもしれません。そこから心身ともにしなやかさが養われているので、感覚とともに生きていれば、とてもしなやかな人生を送ることになりそうです。
知的、概念的な傾向にある現代は物事を概念化して、机上の空論にしてしまいますから、感覚的に、何かに直に触れて生きることで興味や関心が生き生きと活気づき、それによって豊かでしなやかな生き方を考える必要があるようです。