専門用語とは
私の講演はほとんど日常語です。難しそうな専門用語は極力避けます。というより使いません。専門用語は硬いですし、繊細さにかけるので、聞き手の直感を刺激することはないと考えているからです。専門用語は見てくれが悪いです。これは最悪です。その上、繊細さも、そして何よりも上品さにかけるのが気になります。私にとって専門用語はまだ十分に言葉になっていない半熟の言葉なのです。
遡れば明治に西洋学問を輸入した時に案出したものが今日でも学問用語、専門用語として使われています。私たちが日本語というときはほとんどがこれらの翻訳新語を含んだ、西洋の言葉から作られた日本語です。私には不思議な言葉ですが、これが今は普通になってしまったのです。
当時は大和言葉でした。学問の言葉もあるにはありましたが、単語を難しくするのではなく、文体で語る努力をする姿勢が強いのでは無いかと思っています。
単語を難しくすると上等なことが言えていると思うのは単なる思い込みです。知識人が住む知的社会の妄想です。相手がいて、相手に伝えようとしたら日常語で言えなければわかったことにはならないと私は思っています。
そのためには文体を鍛える必要があります。短い単語の中には、文体が凝縮しているような美しい言葉もあるにはありますが、基本的には難しい単語は迷路です。
私は芝居の言葉が好きです。シェークスピアの劇の特徴は、登場人物が舞台に登場し、初めてのセリフを言っただけで観客サイドはそれが誰なのかがわかるという魔法です。セリフひとつでどういう人で、その場面でどういう位置にあるのかがわかるのです。言葉を熟知しているからできる技です。意味だけでなく聞いた人がどのようなインスピレーションを持つのかを知り尽くしているのです。これが言葉による芸術の真髄です。だからシェークスピアは三百年の間生き続けたのです。生きた言葉がつないでくれたのです。生きた言葉は現実の生活そのままなのです。時代を超えて理解されるということでもあります。
言葉は簡単なほど美しいです。美しいだけでなく力強いです。難しい言葉ほど自己満足の世界で空回りします。その上人からの賛同を得られないと、非常に脆い言葉です。外国語を学ぶときにも、専門用語は取っ付きにくいですが、慣れれば難しいものではありません。簡単そうに見える日常語の方が遥かに難しいのです。なぜなら日常語は言葉のセンスで磨かれ作られているからです。長い年月の間多くの人によって使われてきた実績もあります。
自分が思っていること、考えたこと、研究したことを正確に伝えるという専門用語は、結局は自分のことをいうエゴの言葉に属するのではないかと思っています。本人が頑張ったほどには他人に伝わっていないものです。だからと言って学問的な研究を不必要なものだとは考えていません。ただそれを表現する言葉は研究者でも磨く必要があると考えるだけです。友人の数学博士が、数学も結局は言葉の力に帰するところがある、とつぶやいていました。
日常の言葉を駆使しながら、磨き抜かれた文体で深淵な思想の世界、精神の世界が語れるように努力したいものです。