役に立ちますかね

2021年4月17日

今日は書いてはいけないことを書いているのかもしれません。

 

人のためになることをしなさい、とはよく聞くことです。よく聞くだけでなく、改めて言われなくても、当たり前のこととして私たちの生き方の規範として存在しています。

実はこの言葉が大の苦手なのです。天邪鬼で、エゴイストで、へそ曲がりで、偏屈だからなのでしょうか。自分のためになることも十分できていないのに、他の人のためになるようなことをするってどうなことなのか、本当にわからないのです。

 

私がこの絶対級の規範に疑問を持ち始めたのは案外早く、小学校の上級生の頃でした。ただその時は今のようにはっきりしたものではなく、いいことをすると言うのが気分的に自分とは反りの合わない嫌なことだと思っていた程度でした。それにしてもよく耳にする、人のためになるようなことってどうやったらできるのだろうかというのは、相当深刻な疑問でした。ところが、これを口にしたら、周囲からの圧力や反発が強そうで、袋叩きにでも合いそうな気がしていたので、子どもの頃は一度も口にしたことはありません。

 

人のためになる、人の役に立つ、社会で役に立つ人になりなさいなんて言われると鳥肌が立ちました。このように書く、どんな子どもだったのかとまるでエゴの塊のように聞こえるのは、きっと社会全体が偽善的な風潮を含んでいるからだと思っています。大義名分を立てれば済んでしまうからです。

この性向は家庭環境のせいです。子ども親から色々と学びます。基本的な生き方はその中でも一番大きいです。私は両親から人のために何かをやっているという姿を見たことがありません。これもきっと誤解を招く言い方だと思います。両親がやっていることがなんらかの形で人の役にたったりしていたことは見て知っていましたが、両親はその人のためになるようにとしてやっていたのではなかったからです。両親が良かれと思ったことをただやっていただけのように受け取っていましたし、何年も経った今振り返ってもそうでした。また、両親から、特に父から「あの人はいつも恩義せがましいことばかり言う」とよくきいていました。「黙ってやればいいのに」と言うのも口癖でした。その時の父の顔はけっこう厳しくよく覚えています。

ある日街角にベンチが設置されていて、時折通りかかると、よく老人や子ども連れの親子がそこに座って休んでいて、それを見て「いいものができた」と父は喜んでいました。ところが、ある日偶然にベンチの後ろを通った時のことです、寄付した団体の名前がくっきりと書かれていたのを見て、「余計なことを書くもんだ」と小さな声で吐き捨てるように言っていました。ベンチが置かれたことはいいことなのにと不思議でした。今思うと、父は裏切られたような気持ちになっていたのかもしれません。

人間は幼い頃に学んだ基本的なことは頑なに持ち続けているようです。しっかり自分のためになることをしてやらなければダメですね。

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