世界地図の話からエゴの話まで
講演会で話の中身を捕捉するために世界地図を使ったことがあります。
平面化された世界地図になれていますが、あれは便宜上のもので、実際の地球は地球儀で見るのが一番です。
平面に写し出された地球と地球儀の地球の違うところは、平面の地球には中心があると言うことです。
日本で作られた世界地図しか知らないと、これが世界で使われている世界地図だと勘違いしてしまいますが、ヨーロッパで作られている世界地図とアメリカで作られている世界地図と、オーストラリアで作られている世界地図は同じでは無いのです。
何がつがうのかというと、何が真ん中に来るかです。
日本で作られている世界地図の真ん中は太平洋です。それによるとヨーロッパは左端になり、ポルトガルは極西です。ヨーロッパで作られているものは太平洋が分断され日本が極東に位置し、アラスカが極西です。アメリカの世界地図は、ユーラシア大陸を分断しています。更に不思議なのはオーストラリアで作られている地図です。南北がひっくり返っています。基本的な位置は二本のものと同じですが、その地図の中では北海道が下にあり、九州が上になります。ただこの地図はいまだにイギリスの属国であるオーストラリアでは正式の地図として作ることは許されていないものです。1990年代に初めて簡易的な地図として作ることができるようになったものです。世界地図には相応しくないペラペラな紙で、印刷も素朴な色彩で、オーストラリうがいまだイギリスの属国であることを象徴しているような地図です。
世界地図を作る際にも自分が中心になるのだと言うことを、色々な世界地図を見て感じます。自分とは、そもそもの自分から始まり、自分の国であり、自分が存在している地域です。ヨーロッパの世界地図はヨーロッパ共通のもので足りるのです。
いやはやこれが人間の業、人間の性なのかと見せつけられる思いです。
人間が宇宙地図を書いたときも地球が中心でした。それがだんだんと変化し、今では地球が銀河星雲の中のどこにあるのかを自覚できるところまで来ました。
しかし意識はまだまだで、地球以外に生命は存在するのかということが平気で言えるのです。基本的には地球にしか生命体はいと言っているような感じです。地球中心の考えがそのまま延長したものです。
自分中心は克服できるものなのでしょうか。
聖書の中でイエスは「隣人を愛せよ」と言っていますが、二千年を振り返ると人類の歴史は全く逆のことだったような気がします。
自分中心を克服するのは、自分の立場に拘らないと言うところから始まります。つまり自分が自分でないというイメージから始まります。自分の家に、マンションに「お邪魔します」と言って入ってゆくようなスタンスです。
しかしこれが実際にはとても難しいことなのです。宗教を持たれている方は、自分が信じている宗教のことを考えれば、それがどれだけ大変なことかがよくわかると思います。もしこれが簡単にできるものであれば、世界に戦争はないような気がしてなりません。
しかし人間は「平和ボケ」などと言う言い方も作り出しますから、平和が絶対的にいいものだとは考えていないのでしょう。たまには戦争があったほうがいいなんて考えているのでしょうか。
今言っていることは、畢竟はエゴにつながります。
しかし人間はエゴの存在から、エゴを克服できる可能性を見つけ出すことができると信じています。
それは考え方を、感じ方を変えるという程度のことではなく、考え方の別の次元をスイッチしなければ始まらないような気がしてなりません。
この次元を変えると言うことは、何も唯物的な思考に囚われた人たちだけでなく、今日のスピリチュアルとかオカルトという分野にも同じように当てはまることのような気がします。