一般人間学から普遍人間学へ、シュタイナーの口調について
私は人の話を聞くときに、その人が何を言っているのかを聞いていない事があります。では何を聞いているのかというとその人の語り口調です。講演会などでも眠ったように見えるので、注意をされた事があるほどです。言っておきますが、ちゃんと聞いているのです。ただ聞き方が他の人たちと少し違うだけです。
数人で話をしているときなどにも「仲さん聞いていますか」と釘を刺される事があるのですが、失礼なことです。聞いていないように見えて聞いているものなのです。ですから質問されたりすると、そのことに返事ができるのです。
私が聞いているのは、すで言いましたが、内容的な何をではなく、その内容を伝えようとしている乗り物である口調であり、話している人の声の質とか語り口調です。話し手のオーラと言ってもいいのでしょうが、そういうと大袈裟に聞こえてしまうので、雰囲気と言っておきます。あるいは今日的には空気でしょうか。声紋をとれば、その人の基本の声は指紋の時と同じに変わらないのでしょうが、日によって体調によって声の張り、艶そして響きは違います。その辺を話を聞きながら楽しんでいるのです。私的には、そのほうが話全体がよく掴め、分かるのです。
シュタイナーの翻訳で一番訳したいのはこの口調を伝えることです。シュタイナー的な余韻のある口調です。この口調を訳せなかったら訳す必要はないと考えています。講演集の中で何を言っていたのかは、すでに二つの優れた翻訳がありますからそれにあたっていただければ用が足ります。新田義之氏のものと高橋巌氏のものの二つの翻訳で十分足りていると思います。
シュタイナーの口調を訳そうという試みです。勿論ドイツ語なのですが、シュタイナー口調はドイツ人にとっても珍しいもので、すごく付き合いにくい口調です。独特の言語リズムがあると言ってもいいでしょう。今日のように単刀直入に手短に伝えようとするのとは全く違います。その事が習慣になっている現代ドイツ語にとっては厄介極まりないものなのです。なんでこんな言い方をしなければならないのかと文句を言う人は後を断ちません。もちろんシュタイナーの現代語訳という代物があります。
彼の口調は、まるでおろし機で野菜を粉々にしてしまうようなところがあり、それをつなげるにはしっかりした語学力が要求されますから他の人が真似をしたら頓珍漢な、グロテスクな文章になってしまいます。結局いつも言っているように、「用件を足すことだけが言葉の使命ではない」というところに行き着くと思います。
俳句を和歌にして詠ったらどうなるでしょう。意味は伝わるかもしれませんが、和歌になった俳句は全く意味がないのです。伝わっていると思われている意味にしても実際は伝わっているようで伝わってはいないのです。
「五月雨を集めてはやし最上川」と言う俳句を例に取ると、雨で水嵩の増した最上川の様子は伝えられても、俳句になったときの緊張感、充実感、風景の中の作者は和歌に置き換えられてしまえば全く違うものになってしまうでしょうし、言葉遣いからして違ってくるはずです。ましてや散文で言える様なものではありません。
言葉の口調もそんなところです。シユタイナーの口調はもちろんドイツ語以外では絶対に生まれなかったものです。それば訳そうとしても、オランダ語でも英語で、フランス語でもイタリア語でもスペイン語でもできないのです。意味を重視して訳すと、口調は犠牲になって全然違う文章になってしまいます。それでも伝わっているものはあるのです。文章は今日では用件を伝えるための道具なのです。文章がオーラを持っていてそこから感じ取ることなどは忘れられてしまったのです。
そこをなんとか日本語でやってみたかったのです。ただ好事家の趣味に過ぎないと言われるものなのかもしれません。ですからいつも、「本当にやる意味があるのか」という疑問を抱えながらの仕事でした。そんなものを知りたがっている人はどこにいるのかと思った瞬間に、翻訳する喜びが消えてしまう事がよくありました。用が足されていればよしとされるのならそれでいい様な気になり、旧来の翻訳に戻ってしまうのです。
ドイツ語での経験を生かしてシユタイナーの息遣いが伝えられ、その息遣いの中で理解できたらというのか私の願いでした。シュタイナーが言っていることは息遣い以外では伝えられないと思っていたからなのです。ただ本当にそこまでやる必要は本当にあるのだろうかと動揺しながらの仕事と言えます。