あと二日で自由の身です。
29日をもって監禁状態から解かれます。自由に街に出ていいことになっています。公の交通機関も利用できます。ただ今回は家のことに専念するので、旅行は控えます。今回の日本は移動のない初めての日本滞在です。
この監禁ですが、実に不可解な制度だと思うのは、一方で当然のように冬のオリンピックが北京で行われることです。今回はどこからも反対の声が上がってきません。東京オリンピックとのコントラストは気持ちが悪いほどです。
私には本末が転倒している様に映りますが、そこに立ち向かつてもなんの成果も得られない徒労に終わることは見えています。
この外から見ると異常な時期を、個人的には座礁に乗り上げていた翻訳の方に転じていました。どういうことかという、自分の訳した文章を、批判的に「これで本当にわかるのか」という視点から読み返していました。
原文が近くにあって横目で見て訳していると、中途半端な文章になってしまいます。中途半端とは日本語でもなくドイツ語でもなくというグロテスクな文章のことです。これは異なった文化が出会う時に現れれる、ある意味では奇形児、グロテスクな姿だと考えています。
翻訳が座礁に乗り上げたのは、翻訳調でいいじゃないかという私と、文章の流れの中で読んでいるときに速やかに理解できるものであって欲しいという私がぶつかり合って、舵取りに失敗して座礁したということです。
シュタイナーの口調を私の口調に移し替えるというのは考える以上に身体的な負担になるものです。楽しめる部分もあるのですが、全く楽しめないこともあります。役者が舞台である役を演じるときに似ているのかもしれません。演じやすい役柄、苦手な役柄と色々あるのでしょうが、基本的には狂気の境地ではないかと思います。翻訳も狂気の境地の様です。翻訳が終わったらどうなっているのでしょう。
ある時自分の口調で訳したものを読んでいて、どうも着物姿のシュタイナーのようなものを感じて、どうしたものかとニヤ笑いをしながら迷っていたことがあります。せいぜい日本的な、自分に似合う背広ぐらいに押さえておかないといけないのではないかと思ったり、いやいや着物でいいのだと思ったり、激しく揺れるのです。
そうした時にいつも微かな声で心の中に聞こえてくるのは、「日本語で読む人の気持ちになれ」という声です。そして一つくらいとんでもない翻訳があってもいいじゃないかという楽観です。
今はずいぶんとんでもない翻訳に傾いて、座礁から復活してまた航海に出かけています。ただ次の座礁までの短い時間かもしれませんが。